CINEMA STUDIO28

2013-06-17

Les parapluies de Cherbourg

 
 
早稲田松竹で。人生何度めかの「シェルブールの雨傘」、オープニングのように、梅雨らしい雨が降って東京もみんなが傘を広げた朝。
 
 
周りの、特に両親世代の意見を総合するに「ロシュフォールの恋人たち」よりも「シェルブールの雨傘」のほうが人気があるようだけど、私は「シェルブール・・」の美しさはじゅうじゅう理解しながらも「湿っぽい」という簡単な理由で断然「ロシュフォール・・」派。今回ひさびさの鑑賞だったので、気になったことをメモ。
 
 
・ドヌーヴも、相手役のギイも、着てるコートはバーバリー。脱ぎ着するシーンであの裏地が目立つ。
 
 
・部屋の壁紙など内装が、衣装と完全にペアになってるシーンがいくつもある。全編通じて流れる切々としたメロディーと相反するように部屋も衣装も脳天気に明るい・・ことに、小津監督の映画では登場人物がどんな感情であっても音楽がいつも明るく、それは小津監督の「どんなに悲しいことがあっても 空は何時ものように晴れている」という思想にもとづくものだった・・ことを隅々まで華やかなドゥミの画面を見ながら思い出した。
 
 
・私が好きなのはラストシーン。それぞれの人生を歩く2人が雪のガソリンスタンドで偶然再会するのだが、ドヌーヴが、それまでの湿っぽさが嘘のようにあっさりしているのだ。「あなたのこと好きだったわね?たしかに娘はあなたの子よ?でももう過ぎ去ったことよ?」と言わんばかりに。なんなら「私もうこんな小さな街にいないのよ?パリに住んでるの。旦那は金持ちよ?」と続けそうな。悲恋物語はこのように悲しく終わりました・・と言わんばかりに音楽が高鳴るけど、ドヌーヴのあっさりした態度に、私はむしろ女の現金さと潔さをみて、すがすがしい気持ちになる。
 
 
・では、恋人との別離にしおしお泣いてた少女は、どの瞬間、心の太い女に変化したのか。恋人の出征を見送る日、シェルブール駅で最後まで抱き合って別れを惜しみながら、改札を通ってホームに入ると、女はバーバリーのポケットから何かを取り出す。シフォンのような薄い布地で、おそらくハンカチなのだろう。涙も拭えなさそうな薄い素材なので、振るために持ってきたのかもしれない。このハンカチを出すタイミングがものすごく早い。去りゆく列車をすがるように追いかけて、倒れそうになりながらようやくポケットから出し、最後まで恋人に自分を印象づけるように大きく振る・・ということもなく、ホームに入った瞬間もうハンカチを取り出している。あの素早さ。あの瞬間、どっかり肝を据えて女になったのである。そして列車にすがるでも走るでもなく、案外あっさりと背中を返して改札に戻っていく。男の目には、背中を返す女の姿がきっと見えていただろう。あっさりしてんな・・。
 
 
購入したパンフレットにあった秦早穂子さんの文章から知ったことがいくつかあったのでメモメモ。秦早穂子さんはゴダールの「À bout de souffle」を買い付け「勝手にしやがれ」と邦題をつけて日本に紹介した女性。
 
 
主演のドヌーヴは17、8歳の若さでプレイボーイ監督のロジェ・ヴァディムとつきあいはじめ、年若い女性が男と旅に出たりすることはブルジョワたちから白い眼で見られることだった。ヴァディムとの間に子供ができたにもかかわらず、ヴァディムが他の女(ジェーン・フォンダ!)に走ったがゆえにドヌーヴは未婚の母となり、当時のフランスではセンセーショナルなニュースとなり、社会からも教会からも断罪された。まだ有名ではない駆け出しの女優ながら、先にスキャンダルで有名になってしまったドヌーヴをジャック・ドゥミは主役に抜擢した。
 
 
「シェルブールの雨傘」の主人公は16歳という設定らしい。カトリック教会が厳しく堕胎は認められない当時、同じような状況に陥った女性はお金を持っていればスイスに行って堕胎するのが現実に流行ったらしい。存続も危うい傘屋の母娘にそんな選択肢はあるわけなく、母親は金持ちの男を薦め、娘は受け入れる。
 
 
女優として駆けだした途端に崖っぷちに立たされたドヌーヴは、自分自身にも似たこの役を演じ、64年のカンヌで観客総立ちの拍手を受けた。ロマンティックな悲恋物語に隠された監督と女優の男気エピソード。
 
 
不覚にも「ローラ」を未見の私は、今回の上映まで気づかなかったのだけど、実は「シェルブール・・」も「ロシュフォール・・」も、「ローラ」の事後譚。ドヌーヴに求婚する宝石商の男は、ナントローラにフラれ、つらい失恋だったがシェルブールでドヌーヴに出会ったとき運命の人だと思ったと告白し、その場面では「ローラ」の映像が使われている。演じるのも同じ俳優。そして「ロシュフォール・・」ではローラはエラいことに・・。「ローラ」予習篇でもある今回のドゥミ特集、感想の続きは後日。

 

2013-06-10

The grandmaster

 
映画の日に、日劇で。王家衛の新作「グランド・マスター」を観る。京都のちっさいスクリーンの映画館で王家衛を観てた頃を思うと、新作を東京のこんな大きなスクリーンで観られるなんて時間は過ぎたんだなぁ・・。
 
 
李龍の師匠としても知られる伝説の武術家・葉問と、流派の違う何人かの武術家の物語。1930年代からしばらくの広東省〜東北〜香港が舞台。しばらくは相変わらずの映像の美しさ、衣装や美術(特に娼館の場面!)に酔うのだが、前々からあってないようなもんだった脚本(いつもそもそも脚本が存在しないんだったっけ)が、一人の男の半生を描くには弱すぎ、物語にもっと絡むのかと思ってた張震すらもったいない使われ方で、動きすぎるカメラは武術の動きの全体を見せてはくれず、そこはかとなく漂うB級映画っぽさ、まったくもって消化不良な気分に。いつぶりの新作だっけ・・え・・?もしや「花様年華」?など考えつつ画面をやり過ごしていたのだけど、完全に「マイブルーベリーナイツ」の存在を闇に葬っていたことに気がついた。あれもちゃんと映画館で観たのに。王家衛、私の中では90年代で進化が止まってる・・。何を撮っても男女の物語になってしまう王家衛は、こんな大作1本に費やす時間とお金で、「欲望の翼」みたいな小さな、男女の映画数本撮ってほしい・・。
 
 
とはいえ、王家衛、俳優のうちの誰か、30年代の中国という舞台、武術といったキーワードのどれかにひっかかるものがあれば、大画面で観る価値はあるかもしれない。アジアの女優で、なんといってもチャン・ツィイーが大好き!な私としては、彼女を観ているだけで幸せ。容姿も、北京語の話し方も、鼻っ柱の強い女が似合うところもも好きなのだけど、一番の魅力はびしっと鍛えられた体幹。もともとダンスの名手であったからして(何だっけ?人民解放軍の制服着て踊ってる映像観たことあるのだけど・・)、立ち姿の美しさよ。ただ立ってるだけで魅力的に映らねばならぬ俳優にとって、これほどの強みがあるだろうか。そんなチャン・ツィイーが過酷な訓練を積み披露してくれる舞のような武術。長い長い列車の場面を堪能したからこそ、その後の焦点の定まらない表情で弱々しい台詞を吐く場面も生きる。
 
 
主役のはずのトニー・レオンですらチャン・ツィイーを引き立てるためのスパイス程度にしか思えない。この映画はバージョンがいくつかあり、中国版はほぼチャン・ツィイーが主役、という編集になっていると何かで読んだので、機会があればそちらを観てみたい。