CINEMA STUDIO28

2013-12-25

The Secret People







シネマヴェーラで。1952年のイギリス映画「初恋」を観る。「ローマの休日」以前のオードリー・ヘプバーンが観られる映画ということで、日本では「オードリー・ヘプバーンの初恋」というタイトルでソフト化されている。でも、オードリーは主役の妹で、登場場面も多くない。有名になる前夜のオードリーを中心に添えた初恋の物語と期待して観ると肩透かしを喰らう。


30年代のロンドンを舞台にした、生き別れになった恋人に久しぶりに会ったら犯罪に手を染めており、自分まで巻き添えにされてしまう薄幸の女の物語。彼らの存在は闇に葬られておりthe secret peopleという原題そのまま。おそらく、オードリーが後に大成功しなければ誰にも見向きされない映画だったのだろう。


映画の見どころは、オードリーがバレエを踊るシーンが何度かあること。「ローマの休日」の前年だというのに、別人のように地味。地味な衣裳、ヘアメイク、特にオードリーの美貌を際立たせるでもなく、「主人公のただの妹」として写すだけのカメラのせいで、磨けば光る原石らしさも感じられない。この時点から1年であの「ローマの休日」のキラキラに至るのかと思うと、底力のある女は恐ろしいということ以上に、「ローマの休日」はオードリーを世に送り出すために、その道のプロフェッショナルが集結していたのだな、と裏方の努力を思った。


物語の途中、ロンドンからパリに移動し、1937年のパリ万博を見物に行くシーンが楽しい。家族で各国のパビリオンを巡り、擬似世界旅行を堪能する姿は、ずいぶん世界が広かった頃のささやかな楽しみが映し出されていて微笑ましい。

2013-12-23

Stromboli

 
 
シネマヴェーラで。ロベルト・ロッセリーニ「ストロンボリ」観る。1949年の映画。主演はイングリッド・バーグマン。ロッセリーニ「 無防備都市」を観たバーグマンが、こんなにいい映画なのに観客が少なすぎてありえない!私(という知名度のある女優)が出演することでロッセリーニの映画を多くの観客が観るようになればいい!と、熱いラブレター書いて2人が出会って作られた1本目の映画。
 
 
バーグマンがエラいところに嫁いでしまった!と大騒ぎする物語。戦争孤児になったバーグマンが、難民キャンプで知り合った男にプロポーズされ、他に生きていく方法もないから結婚し、男の故郷に来てみたら、それが地中海の小さな島・ストロンボリ島で、島人たちはみんな保守的でイケズだし、すぐそこに活火山はあるし、夫は漁に出てあまりいないし、着いた瞬間もう帰りたくなってしまってジタバタする。
 
 
ストロンボリ島という島が、そこで撮るだけで何でも映画になりそうな特異な島。いつ噴火するかわからない火山が中心にあり、男の質素な家は時間をかけて噴火の影響でダメになった土地を整えてようやく建てたもので、火山に怯えながらもそこで暮らすしかない土地の人々の静かな諦念に溢れた家。映画に使われたこの家は未だに島に残っているらしい。行ってみたいようなみたくないような・・。海と面白い建築繋がりではゴダール「軽蔑」に匹敵する画面の面白さ。さらに加えて火山もあるんだぜ・・。
 
 
牧師や教会が度々登場し、中盤までは島の人々の保守性の象徴みたいに思えるのだけど、この島の厳しすぎる環境を目の当たりにすると強い信仰心もむべなるかなと思えてきて、強がっていたバーグマンが最後ただ神に祈るしかなくなる変化も理解できる。
 
 
途中の迫力あるマグロ漁の場面は、その前の笑ってしまうほど素朴なタコ漁からの落差も面白く、これぞ島の男の仕事!と思えてくるし、その流れで観ることになる火山の噴火シーンは、逃げまどうバーグマンや、船に浮かんで避難するしかない島の人々の姿とあわせてこの映画の一番の見所。火山撮影で助監督の1人が命を落としているらしい・・。
 
 
ぼほ最後まで島に同化しない自称「都会の女」バーグマンの、周囲の人々、自然からの浮きっぷり。「島に住む私」にいつまでも変化できず、「島と私」の距離を頑なに縮めようとしない彼女が、身体を使って疲労することで徐々に島、火山に同化し、島の人々のように神に祈るようになる変化を見守るまで、一秒たりとも気が抜けない緊張感溢れる物語だった。
 
 
久しぶりに観たバーグマンは、自分の記憶の中の印象以上に骨太。もっと華奢な女だと勘違いしていた。コットンのストライプのシャツ、ジャストサイズより1サイズは大きそうなトレンチコート、黒いニット、たっぷりしたパンツ、フレアスカートはどれもマーガレット・ハウエルのような素材、サイズ感で、骨が細すぎてどうしてもああいうのが似合わない私は、そうそう、こういう洋服が似合うのはこういう身体の女よね、と思いながら眺めた。骨格がしっかりしており、胸もヒップも肉を感じさせる豊かさ。漁を見物に行った女が水に濡れスカートを膝上までたくしあげたときは細く筋が目立つ脚が強調される。それは島の他の女が家の外ではけっして見せない奔放な振る舞いで、洋服も素朴でシンプルなようで島の女の誰とも違う。こんな女が閉鎖的な島に来たら、目立ってしまってしょうがない。父の一番好きな女優がバーグマンで、今になって観てみると、ああ、こういう顔に知性があって、芯が強そうで、気も強そうな女、いかにも好きそうだなぁ・・と納得。話題にしたことないけど父はアリダ・ヴァリなんかも好きなんじゃないかしら。大きめのトレンチコート着て男を無視するのが似合う女、アリダ・ヴァリ。
 
 
スクリーンで観られただけでも感謝すべき1本だけど、いつかもっと大画面で再会できる日を楽しみにしたい。
 
 
 
 
発見した「ストロンボリ」撮影中の風景。なんと!イングリッド・バーグマン本人による映像らしい。映画の険しさとはうってかわって笑顔溢れる撮影現場。ロッセリーニとバーグマンは出会ってしまってお互いの家庭を捨て、このスキャンダルによりハリウッドとは長らく距離を置くことなった。という前提で観てしまうからかとても生々しい映像。しかし、バーグマンの、良き家庭人であることよりも、女として女優として欲望に正直に生きる意志を知ってしまっていることも含めて観る「ストロンボリ」は、バーグマンの私生活が、ふらふらになりながらも逞しく火山を登っていくヒロインの姿から透けて見えて、ただ映画を観る以上に味わいある映画体験になった。

2013-12-18

THE BLING RING

 
10月、東京国際映画祭で。ソフィア・コッポラ「ブリングリング」を観た。
 
 
ずいぶん前バラエティ番組で女優の紺野美沙子とフレンチの坂井シェフが料理対決していた。いくら紺野美沙子が自称・料理好きだからと言っても坂井シェフは本職のシェフだから、最初の設定でハンディキャップを設けており、食材に使える予算が4人前ほどで紺野美沙子は10万円、坂井シェフは1000円だっけな。紀伊國屋だか、高級スーパーでフォアグラ、カラスミ、高級食材をぽいぽいカートに入れていく紺野美沙子。対して坂井シェフは商店街の八百屋で野菜を1つだけ売ってもらったり、魚のアラをもらったりして格安で食材を調達。出来上がりは、紺野美沙子の料理は盛りつけもいかにも素人のそれで、坂井シェフのは材料費の安さが信じられないほど美しく、食べた人たちの判定も満場一致で坂井シェフ。紺野美沙子の顔に泥を塗るような展開だったのだけど・・プロとアマチュアの差ってわかりやすいなぁ・・と思った。
 
 
ソフィア・コッポラのこれまでの映画を思い出すとき、あのバラエティ番組の紺野美沙子が同時に思い出される。デビューする前から既に名前が売れているお膳立て、キャスティングもきっと希望が叶いそうだし、音楽やファッションのセンスも良い。これだけの高級食材を揃えて、どうして出来上がる映画がつまらないんだろ・・?新作かかるたびに観に行っては悪態をつく自分もどうかと思うけども、今回の新作もあまり期待はしていなかった。
 
 
しかし「ブリングリング」はソフィア・コッポラの新境地。自分だけの庭で遊んでた女の子が、世界と交わり始めたような映画。前作「SOMEWHERE」は驚くほど空虚な映画だな、と思っていたら、最後の最後に主役の男に同じところをぐるぐる車で走らせた最後に、俺には・・・何もない・・。と呟かせて終わったけど、あのセリフでソフィア・コッポラは自分の何かを殺したのかしらね。と「ブリングリング」を観て思った。
 
 
ハリウッドセレブの家を次々に襲い、ブランドものの洋服、靴、バッグ、ジュエリー、現金を狙った窃盗団は近くに住む高校生だった・・という実際の事件をとりあげたこの映画、パリス・ヒルトンが撮影協力し、ありえないほどゴージャスな(そしてかなり趣味の悪い)クローゼットを披露している。
 
 
高校生が住む一帯というのが、ハリウッドセレブが住む一帯と絶妙に近い。という設定がいい。設定というより実際の事件だから事実なのだけど、Googleでセレブの住所を調べ、その夜すぐに気軽に狙いに行けるほどの近さは、物理的な近さ以上に本来は一方的に知ってるだけのはずの有名人との距離も消し去ってしまう。セレブのTwitterやパパラッチが即時更新する動向もチェックできてしまうと、顔も知らない隣人以上にセレブが近く見えてしまう。
 
 
窃盗団を構成する男女も絶妙におバカで病んでおり、実物は映画以上におバカだな、と、原作をちらちら読みながら思ってるところ。主犯級のふたり、転校生の男子(彼はゲイなのか・・?本をもっと読めばわかるのかしら。映画ではそういう描写もあったけど、主犯の女の子に惚れてるようにしか見えなかったのだけど)、もう1人のアジア系の女子、この2人がとても良い。アジア系女子の肝の据わり方・無駄なほどの行動力・思考の浅さはこの犯罪の主犯にぴったり。最後まで観てもまったく反省してなさそうで、日本でリメイクするなら覚醒剤でしれっと逃亡したあの女優さんの若い頃でベストキャスティングだと思う。窃盗団で唯一、有名女優がキャスティングされていたエマ・ワトソンは、さすがの演技慣れで要所要所で映画を引き締め、最後においしいところを持って行ってさすが。まあ、エマ・ワトソンじゃなきゃダメ!って役でもない気もするけど…。裁判シーンの短さがいい。エマ・ワトソンのおバカな母親(朝食に抗うつ剤を娘たちに飲ませたりするし、引き寄せの法則にカブれている)の女優はジャド・アパトーの奥さんらしい!
 
 
ソフィア・コッポラは子供の教育のために久しぶりにアメリカに戻ったら、思った以上にアメリカがSNSとセレブリティのゴシップにまみれていることに驚き、この実話の映画化を企画し始めたとのこと。ソフィア本人はインターネットから日々離れた生活をしており、娘たちが成長する頃には今とまったく違う(昔のような)世界になっていてほしいと願っているらしい。
 
 
世界と交わり始めたとたんジャーナリストみたいなスタンスが垣間見えるのが興味深いけど、淡々とセンセーショナルな実話を映画に仕立てつつも、強いメッセージを込めるのは暑苦しいし粋じゃないわ。というトーンで終わっているのは、ソフィア・コッポラが「どうして自分がファッションアイコンなんて言われるのかわからない」ってしゃあしゃあと言えるセレブリティで、どうしてそんなにルブタンが欲しいのかしら?本当にわからないわ。って本物は買えなくてファストファッションで格安のルブタンふうを買うしかできない下々の者どもに自分の名前のついたルイヴィトンのバッグ持ちながら真顔で問いかけてるみたいでもある。人はその人が育った目でしか世界を見られないのだなぁ・・。自分の内面ばかり描いてたこれまでの映画より、この映画のほうがずっとソフィア・コッポラという人が見えてきた気がしている。
 
 
映画は楽しめたけど、この物語はきっと事実が一番興味深いのだと思う(映画を誉めてるんだか貶してるんだか・・)原作本を早く読もう。
 
 
 
 
東京国際映画祭での上映は、上映前にソフィア・コッポラ本人の舞台挨拶があった。前から2列目、1列目が報道席だったのでそのすぐ後ろに座ったら、ソフィア・コッポラが2メートル以内に。
 
 
ティム・ガン先生が「確かに彼女はいっそ無視してやりたいほど恵まれた人間ですが'(親族は有名人ばかりで、マーク・ジェイコブスは親友です)、ここは公平になりましょう。彼女の落ち着いたファッションはぜひ見習うべきです」と、おっしゃるとおり、ソフィア・コッポラのファッションは彼女の映画以上に好きなので、至近距離からじろじろ観察。スーパーナチュラルかつミニマムに整えるために、最大限の努力のもと、最良の選択をした、というファッション。VALENTINOのラインストーンがついた白いシャツ、光沢あるウール?シルク?の黒いパンツ、素足にオープントゥのウェッジサンダル。ペディキュアはなし。マニキュアは透明のをうっすら。両手にビジューのついた太いバングル、左手薬指に指輪、首もとに細いネックレス。それぞれ質の良さがひとめでわかり、イブニングドレスのようなわかりやすいドレスアップではないけど、同じぐらい手がかかった(そしてお金も)シンプルで豪華なファッション。とても落ち着いた声で言葉を選んでしっかり喋り、会場にいる誰よりも賢く見えた。舞台挨拶の後、カメラマンに囲まれ「ブリングリングの世界にいるみたいね」とつぶやいた後、「こんなフォトセッションなんて外でやればいいじゃない。お客様に早く映画を観てもらいたいわ」とスパッと言った言葉が、とても見た目の印象に近かった。

 

 

2013-12-16

Gravity

 
 
六本木ヒルズで「ゼロ・グラビティ」を観た。なんという映画!地球上の全生命体よ、今すぐ3Dメガネかけてこの映画を観よ!
 
 
 
 
TOHOシネマズDAYだったから1300円で観てしまったけど、サンドラ・ブロックのグレーのタンクトップに万札折り畳んでおひねり滑り込ませたい。映画のデジタル化を嘆き、フィルムの古い映画の画面の傷やバチバチ音を愛し、「本作品は制作から長い年月が経っておりますのでお見苦しいところお聞き苦しいところがありますがどうぞご了承ください」って場内アナウンスに「そんなぁ。謝らなくていいよぅ(むしろ萌えてるよぅ)」と思う程度にフィルム原理主義者だけど、人間の顔以外はほぼ人工的に作られた「ゼロ・グラビティ」、映画創世記の観客がリュミエール兄弟の「列車の到着」に腰を抜かしたように、誰も観たことのないような世界を観客の前に出現させるために汗した製作者たちの熱意を堪能せずして、21世紀の現在を生きる人類が廃るわ。
 
 
とにかく大画面で!3Dで!東京国際映画祭でいくつか作品を六本木ヒルズのスクリーン7で観て、素晴らしい環境だと思ったのでヒルズで。前方の席だと視界に前方の人類の頭部が映りこむことなく、大スクリーンと自分という環境で観られるから好き。でもやっぱり遠出してでもIMAXで観るべきだなぁ。二度目観るならIMAXにしよう。
 
※ここから先は映画の内容にかなり触れます。

↑撮影風景。メイキングあったら是非観たい
 
 
・宇宙でさっき撮ってきたような映像が素晴らしい。酸素の薄さを感じる臨場感。遊園地のアトラクションに乗ってるみたいな体感の映画だから、90分少しという短さがとても効いている。
 
 
・映像美はもちろんのこと、物語がシンプルなことがとても良い。ほぼ1人の女性の喪失と獲得しか描いてない。変に再現映像を挟むこともなく、あくまで「宇宙で起こっていること」だけを撮る英断。何を撮るかより、何を撮らないかこそセンスだよなぁ。
 
 
・サンドラ・ブロックっていい女優なんだなぁ。大画面を数十分ひとりで支配できる女優なんてめったにいない。キャスティングはアンジェリーナ・ジョリー→マリオン・コルティヤール→スカーレット・ヨハンソン→ブレイク・ライブリー(何故?絶対無理だと思う)→ナタリー・ポートマンが検討された後にサンドラ・ブロックに決まったらしいけど、有名女優なら誰でもいいのか?って顔ぶれである。「君と歩く世界」が良かったので敢えて選ぶならマリオン・コルティヤールかな?と思うけど、サンドラ・ブロックのあの年齢、あの身体、あの髪型、あの表情は余人に代え難い。しかも演じてるときは我々が観ている宇宙なんて何も見えない状態であれを演じてるのね。やまだくんサンドラさんにオスカー3つやっとくれと言いたい。
 
 
・ジョージ・クルーニーはこの先数年私の「上司にしたいハリウッド俳優ランキング」上位を占め続けるだろう。酸素の都合でセリフがとても限られた数しかないのに、余計なことばかり言ってるようでひとりの女性が宇宙でサバイバルするのに必要なメンタル/フィジカル双方の教えを少ないセリフですっかり伝えていた。
 
 
・ビリー・ワイルダーは映画冒頭のショットに伏線をたっぷり張って、きっちり回収して終わる脚本を書く人だったけど、この映画もそのようにたとえば飛行船を浮遊する物体などにその後の展開の鍵が潜んでいる。後に火事を引き起こす配線はサンドラ・ブロックが通り過ぎた時から火花を散らしていた。あと、中国の宇宙船に卓球ラケットが飛んでるのには笑った。
 
 
・中国にはどんな困った人が乗ってくるかわからないんだから、宇宙船内はせめて中国語/英語の二ヶ国語表記にしなさいと伝えたい。そしてロシアに迷惑かけられたアメリカが中国に助けられるという流れの物語でもあるね・・。
 
 
・エンドロールはキャストの少なさとスタッフの多さのコントラストが見物!何気にヒューストンの管制塔の声が「アポロ13」のエド・ハリス。
 
 
・哀しみを抱えた女が宇宙で一度死に、海に落ちて、羊水に浸り、生き返る。サンドラ・ブロックがもう若くはなく、しかし覚悟で凛とした、動くたびに太ももにぴぴっと筋が入る、鍛えていないとああはならない身体でそんな女を演じている。突入する前「10分後もし焼け死んでいたとしても、これは最高の旅だった」ってセリフ、たまらない。久しぶりの重力を感じて陸に立ち上がるラストショットは後光が射していた。喪失なくして獲得なし。此処から永久の場所で起こった出来事が平坦な地上で酸素を吸いながら淡々と生きる私の心を打つなんて、そんな離れ業も、映画にはできるんだなぁ。
 
 
 
 
 
 
サンドラ・ブロックが話しかけてた、地上にいる犬と赤ちゃんがいる場所。は、こんな場所だったみたい。我々は声だけ知ってる相手について、本当に何も知らない。

 

2013-12-15

To Rome with love



これ、ウディ・アレンのフィルモグラフィのうち「scoop(タロットカード殺人事件)」まで、
ウディ・アレンがかけてるメガネの形らしい。細かく観てる人っているものだな・・・
 
 
 
 
ギンレイホールで。ウディ・アレン「ローマでアモーレ」観る。なんちゅう邦題。まぁわりとそういう内容ではあるんだけど・・。
 
 
 
 
最近の、ニューヨークから家出したウディ・アレンがヨーロッパの大都市で撮る観光映像つき映画の中では、駄作に入るんではなかろうか。途中眠くて何度も集中力が切れたのはこちらの体調問題だけではなさそう。ロベルト・ベニーニのくだりはパパラッチはイタリア名物だよ!ってことなのだろうか。ベテランから若手まで有名どころ使いながらも、誰も魅力的に見えないのが残念・・。シャワーで本領発揮するオペラ歌手、俳優?上手だなーと思っていたら本職のオペラ歌手だったけど、ラスト近くのオペラシーンはちょい長い。それでも、ジェシー・アイゼンバーグ(好き!)とエレン・ペイジが絡むのはどっちも好き!だからおいしかったな。
 
 
「それでも恋するバルセロナ」や「ミッドナイト・イン・パリ」などウディ・アレンの作品群でもヒットするものほど私にはあまり面白くなく、最近のだと「メリンダとメリンダ」や「人生万歳!」などキャスト地味めの作品群ほど面白いと思うのは、事前期待の低さゆえなのかな。21世紀に入ってからのベストは「マッチポイント」だと思ってるけど!
 
 
そうは言っても80近くのウディ・アレン、円熟味漂う新作が毎年観られるなんてこんな贅沢あるだろうか。来年5月公開の「ブルージャスミン」はNYとSFが舞台。ケイト・ブランシェット主演、裕福なソーシャライトが貧しい生活に堕ちていく物語とのこと。楽しみ。

 

2013-12-12

Happy 110th anniversary Mr.Ozu!

 

Googleのトップが東京物語。12月12日は小津安二郎監督の誕生日かつ命日。110年前に生まれ、50年前に亡くなった。こういう日は・・何と言えばいいのかな。おめでとうございます、じゃ不謹慎な気もするし・・。

 

この本は「小津安二郎生誕90年フェア公式プログラム」で、20年前の本。私の本棚でも最古の本だと思う。買ったとき高校生だった。そして100年フェアの10年前、まったく同じ内容の本が発売されたことも知っている。ずっと映画を観ていて、好きな監督は入れ替わりもするけれど、小津監督はほとんど唯一ずっと憧れの人で、自分が年を重ねるごとに美意識の高さに平伏す度合いは増すばかり。

 
 
 
 
 
 

現在、小津監督についての企画が多いのでメモ。


・神保町シアター
観ようと思っていた「宗方姉妹」を逃してしまった。観られる映画はほぼ観ていると思うのだけど、今回の特集では年明けのサイレントのを楽しみにしている。
http://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/program/ozu2.html


・フィルムセンター展示
ものすごく楽しみ。
http://www.momat.go.jp/FC/ozu2013/index.html


・GyaO
なんと日替わりで無料配信!
http://special.streaming.yahoo.co.jp/movie_ozu/


・BRUTUS
本屋で小津監督特集を見かけると必ず手には取るけど、必ず買うわけではない。これは、冒頭に小津監督生前最後の写真(なんと中井貴一と一緒に写ってる)が載ってるのを確認して購入。小津作品の衣裳について栗野宏文さんの文章あり。まだちゃんと読めていない・・。「小津の入り口」という切り口ながら、ファン歴20年の私にも新鮮な内容ばかりで嬉しい。
http://magazineworld.jp/brutus/767/


たくさんあるけど、何を観ればいいの?という方には私の特に好きな2本をおすすめすることにしている。


■浮草(1959年)


かつて日本の映画製作において「五社協定」という、松竹、東宝、大映、新東宝、東映の大手5社の間で、各社専属の監督、俳優を引き抜かない、貸し出さないという内容の協定が存在する時期があり、小津監督の映画が松竹ばかりなのは松竹専属だったから。協定が終了する間際には俳優や監督の貸し借りも行われる程度に緩くなり、「浮草」は小津監督が唯一、大映で撮った映画。大映は美しい映画を作ることに執着するあまり制作費がかさみ倒産したという説もあるほど、今観ても本当に綺麗な映画ばかり。松竹での映画ももちろん素晴らしいけど、「浮草」は小津監督の世界観を大映のクオリティで観ることができるお得な一本。撮影は「羅生門」で有名な宮川一夫さん!


大映で撮るということはスタッフも、そして俳優陣も大映の専属を使うという意味で「浮草」に笠智衆や原節子は登場せず、代わりに若尾文子、京マチ子、川口浩、中村雁次郎という大映のスター俳優がキャスティングされている。旅回りの一座の数日間の物語。若い女がその土地の男を誘惑したり、その土地にかつて女がいたらしい男を、今の女が責めたり・・と、小津監督の映画にしてはやや派手な物語でもある。


最初から最後まで画面がしっとり濡れているような、艶っぽい映画。色恋沙汰が絡む物語のせいだけでも、大映クオリティの美しさのせいだけでもなく、おそらく小津監督がいつもの松竹を離れ、初めての大映でスタッフや俳優陣をうまく制御しきれていないからかもしれない。私の好きな小説で、セクシーの意味について問われた子供が「よく知らない人を好きになること」と答える場面があるのだけど、この映画はだからとても艶っぽいのだと思う。旅芸人が楽屋で着る浴衣の裾が、階段を上がるたびに捲れて見える素肌にハッとするように、自分のコントロールを外れて予測不能な動きをする男や女を、よく知らないけど、とても美しいし興味深いと思いながら撮られた映画のように、私には見える。


■麦秋(1951年)


初めて観た小津映画で、それからずっと好きな1本。北鎌倉に住む笠智衆とその娘・原節子。原節子の結婚を近所に住む杉村春子が心配するという物語。「東京物語」に比べ、誰も死なないし、大団円で終わるのが良いのかもしれない。しかし最後のほうでおじいちゃんが言う「生きていれば、いつかまたみんなで会えるさ」という一言は、昔はさらっと流して「家族なんだからいつでも会えるんでしょう?」と不思議に思いつつ聞いていたのが、この頃は重い言葉に聞こえてくる。これは家族が当たり前に寄り添って共に暮らす、当たり前に思えて実は短い時期の、最後の瞬間を描いた物語だったのかもしれない。


高校生時分の私は小津作品をいくつか観て、東京では役員室みたいな部屋に佐分利信みたいな叔父さんが働いてて、仕事の時間に「ちょっと近くに用があったから、叔父さまどうされてるかと思って」ってお邪魔すると「やぁ、よく来たね。どうだい、鰻。いいだろ、鰻」って一緒に鰻食べに行くような労働生活が営まれてると妄想してたけど、大いなる錯覚だったな・・。

 

2013-12-11

Dystopia stories


 
 
 
 
映画館を出た後、外の世界が少し違って見えるのは私にとって良い映画。夏に観た「コズモポリス」、数ヶ月か経った今も、少し世界が違って見える。カイエ・デュ・シネマ2012年ベストは1位がカラックス「ホーリー・モータース」、2位がクローネンバーグ「コズモポリス」で、奇しくもどちらもリムジンに乗った男が街を移動する映画。2012年はリムジン映画豊作の年だったのね。他は知らないけど。外から入ってくる刺激の吸収率は、自分の渇望度合やタイミングにおおいに左右されるのだから、今話題の!や、全米大ヒット!など謳われても、ね。資本主義はどうやって終わるんだろうな・・・とぼんやり考えていたタイミングで「コズモポリス」を観たので、がつんと吸収してしまった。
 
 
 
 
「コズモポリス」は、資本主義が緩やかに自殺する1日を描いている。「トワイライト」シリーズでアイドル人気を獲得したロバート・パティンソンが資本主義そのものである男を演じていた。リムジンの後部座席に端正な男が座るチラシを見たときから気になっていた。スーツはグッチが提供したらしい。エンドロールによると時計はシャネル。話の中身を知らないうちは、男がとっかえひっかえ瀟洒な衣裳をお着替えする映画かと思っていたら、或る1日のほんの数時間の物語で、途中セックスの度に脱いだりするものの男は着替えない。ただ、きっちり着たスーツは、よれていき、シャツは汚れ、男は徐々に肌を露わにしていく。高級スーツがずたずたになっていく過程がそのまま時系列に資本主義の崩壊を象徴していた。
 
 
男は一日の殆どの時間をリムジンで過ごし、リムジンの中から世界の通貨をコントロールする。期待をかけていた通貨(ドン・デリーロの原作では日本円だが、映画では中国元に置き換えられていた。なんと・・・!)が男のコントロールを外れ急降下していく。男は世界を緻密に操る如く、自分自身の身体の内側すらも正確に把握すべく毎日医師をリムジンに招いて健康診断を受ける。その日はいつもの医師が現れず、やってきた代理の医師により彼の前立腺の非対称性を指摘される。彼を知らない代理医師がたまたま見つけてしまったのか、いつもの医師も見つけていたけど指摘できなかっただけなのか。己の前立腺すら完全な対称を信じて疑わなかった彼の歯車が狂っていく。
 
 
男は富によって、もしくは富に支えられた美貌によって、美しい富豪の妻と知り合い政略めいた結婚をするが、リムジンで移動する時間の中で、時々会う妻にはセックスを拒否され続ける。日に何度も食事を摂り、日に何度も妻の替わりに適当な女たちと交わるさまは全てを手に入れているはずの彼の欲望不満を炙りだしていた。
 
 
格差の違う者同士は決して混じり合うことはない暗黙のルールの元に運営される資本主義世界で、歯車が狂い始めた男は、下位階層の男に自ら近付いていく禁忌を犯し、映画は終わる。ブラッドリー・クーパー同様、この映画ではロバート・パティンソンも身体が多くを語っていた。ロバート・パティンソンの身体はトレーニングの形跡がなく隙がある。フォトショップしたような筋肉が目立つ身体を持つ男であれば、崩壊が忍び寄る隙間すら与えなかっただろう。ロバート・パティンソン、端正な顔と緩い身体、その不均衡さがこの映画にとても似合っていた。
 
 
2003年、リーマンショック前に書かれた原作、ドン・デリーロ「コズモポリス」は予言的小説と呼ばれているらしい。2010年に書かれた「スーパー・サッド・トゥルー・ラブ・ストーリー」もきっと予言的内容なのだろうと分厚い本を読み始めている。
 
 
 
 
 
 
 
こんな物語・・・読むしかない。「コズモポリス」で崩壊した世界の続きの物語にも思える。まだ30ページしか読んでないのに、完全に力を無くしたアメリカの描かれ方は既に非常に切ない。
 
 
 
 
 
自分を取り巻く環境要因がこんな気分にさせるのかもしれないけど、今とても、世界の終わりに興味がある。ディストピアってどういう意味だったっけって調べてみたら、ユートピアの反意語だけど、ディストピアとして描かれる世界は、実はユートピアとして描かれる世界との共通部分が多い。と読んで、墨を飲んだような気分に陥っている。
 
 
素朴な疑問・・・世の中の人はどうやって読書時間を捻出しているの・・・?テレビからもインターネットからもじゅうぶんな距離を置いているのに、なかなか読書時間の捻出は難しい・・・。

 

2013-12-10

The place beyond the pines




ギンレイホールで。怖いもの見たさで「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命」を観た。

http://www.finefilms.co.jp/pines/

「ブルー・バレンタイン」の監督&主演ライアン・ゴスリングが再タッグを組む触れ込みで、私は「ブルー・バレンタイン」が21世紀に入ってから観た映画でワースト5に入るってぐらい苦手だった。途中退席しようとしたらびっしり埋まった客席の殆どが倒れそうなほど号泣してて出るに出られず、拷問みたいに画面を凝視するはめに。何がそんなに苦手だったのか説明できないけど、それを言っちゃあおしめえよの一言を言わせていただくと「なんか生理的に無理」としか言いようがなく・・。時間を割いて鑑賞したのだから何か教訓を持ち帰ろうと真面目に気分を切り替え、最後の花火シーン観ながらの結論は「どれだけ心が弱っていたとしても、え?その髪型なに?その服装は?と直感で引いてしまう男には隙を見せてはならぬ」ということ。

その後、ライアン・ゴスリングについては「ラブ・アゲイン」で、とってもキュートだったので私的信頼回復。

舞台はNY州スケネクタディ。親同士の因縁が、子供にまで続く血の巡りの物語。バイク曲芸で身を立てる流れ者の男にライアン・ゴスリング、彼を追い詰める警官にブラッドリー・クーパー、バイク乗りの子供として後半登場するデイン・デハーン。3人の俳優が物語を繋いでいく流れを見ているだけでも豪華。監督はきっとライアン・ゴスリングに男のセンチメンタルを詰め込みたい欲望が抑え切れないと見えて、「ブルー・バレンタイン」同様、前半はかなりセンチメンタルながら、その後を引き受けるブラッドリー・クーパーの存在により私にとって観るべき映画になった。オープニングでブラッドリー・クーパーが出ていることを初めて知ったので、想定外で嬉しかった。

ブラッドリー・クーパー、顔立ちや表情、身体つきがとても健やかで、彼の登場以降、淀んだ画面が浄化されるような感覚があった。「世界でひとつのプレイブック」も、なかなかどうしようもない話だったけど、ブラッドリー・クーパーの健やかさが物語を助けていた。今はどん底にいるとしても、このような身体の男であればおかしな方向には行くまい。と、画面に映ってるだけでこちらに思わせる不思議な説得力。見た目は大事。立っているだけで何かを語れる俳優は強い。あの映画はジェニファー・ローレンスの身体もそうで、途中から物語はどうでもよくなり、2人の身体の動きばかり見ていた。「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ」でも、これがブラッドリー・クーパーではなく、例えばホアキン・フェニックス(極端な例え・・!)のような身体の俳優が演じていればずいぶん違った物語になっただろう。野心の陰に秘密を隠してのし上がっていく警官役にブラッドリー・クーパーはナイスキャスティング。

最後のパートを引き受けるデイン・デハーンは、今年話題になった超能力ハイスクールもの「クロニクル」主演の若手俳優。レオナルド・ディカプリオの若い頃を彷彿とさせる華奢さと、ベネチオ・デル・トロを彷彿とさせる目の下のクマが印象的で、20代半ばなのに暗い高校生役が板につきすぎている。これから有名になっていくんだろうなぁ・・。最後を引き受けて因縁の物語に落とし前をつける役割は、若くて屈折してそうな見た目なら誰にでもできるものではない。デイン・デハーンは今の見た目を保っていられる間はあらゆるバリエーションの高校生を演じておいてほしい。





物語の舞台はNY州スケネクタディ。この変わった地名は、原住民の言葉で「松の木々の向こう側」という意味らしく、そのまま原題になっている。さらにpineには後悔といった意味もあるらしく、後悔を超えたところにある場所という、映画を観終わった後なら腑に落ちるトリプルミーニングのタイトル。日本語題はあまりに雑だけど、かといって代案もうまく思いつかない。名前をつけるって難しいことだけど、日本語題のせいで日本ではあまり話題にならずにいるのではないか。この映画はきっと、何年か後、俳優陣がさらにメジャーになった頃、やたらキャストが豪華かつ物語も良い。と、世の中に認知されそう。





↑この絵(ポスター?)はとても良いけど、映画の印象はあまり伝えてないな・・・
いろんな国のポスター検索してみたけど、3人の俳優をきちんととらえたものがないのが意外。


2013-12-08

エレガンスの十戒

今日、読書してて知った「エレガンスの十戒」。フランスの女優、ジャクリーヌ・ドリュバックによるもの。日本ではずいぶん前の「花椿」で紹介されて一部の人に有名になったらしい。こういうの好きなのでメモ。

Jacqueline Delubac

なるほどエレガントな女優

 
 

この写真!

真ん中がジャクリーヌ、

右がジャクリーヌの夫だった時期もあるらしいサッシャ・ギトリ。

左はなんとアルレッティ!

映画で観たこときっとあるけどジャクリーヌを認識してなかったかもしれない。

 
 
 

「エレガンスの十戒」

1 モデルが着たり、雑誌で評判になった服は決して選ばない

2 何が自分に似合うかをよく研究し、その基準を厳しくする

3 最も大切なのは細部である。 足にぴったりあった靴、気に入ったバッグを見つけたら、とことん使い、次も同じものを買う

4 似合わない服を十着とりかえるよりも、似合う服を十回着つづけるほうがいい

5 質の悪い十着よりも、質のよい一着を買う

6 旅は軽装にかぎる。ベーシックなスーツ二着とよそゆきのドレス二着で充分。ただし、どう組みかえてもすべてがマッチするものでなくてはならない

7 夜外出する時は、必ず化粧をしなおし、服もとりかえること

8 昔似合っていたからといっていつまでも同じような服装をしていると、流行遅れになる

9 お金がなくても、アイロンのかかったシーツと、きちんと整えられたベッドがあれば、最高に豊かな気分になれる

10 たとえ独り暮らしでも、自分自身のための美しくするよう心がける

2〜10については他の服装本にも時々出てくる言葉だけど、この十戒の厳しさは 1 にあるのだろうな。ここ数週間、敢えて情報をシャットアウトしてみたら、「社会の中の自分」的な視点が薄れ自分自身への集中力が増し、処分しようか迷っていたモノへの執着も同時に薄れてきた。改めて中長期のwishlistを考えてみたら、10年前から欲しいと思ってるものだったりもして、好みの変わらなさに驚いたりしている。

 
 
 
 

決意してから2週間ほど経ってようやく手をつけ始めた大掃除&身辺整理。人生最大規模の整理になりそうで、何から手をつけていいのかわからず呆然としてたけど、いつまでもぼんやりしてるわけにもいかない。カーテン捲り上げて窓を開ける。気が済むまで整理したら、インテリアも少し変えてみよう。

 

2013-12-07

Regard neuf sur Olympia 52



メゾンエルメスの上階にある映画上映スペースは、滅多にスクリーンで観ることができないレアなフランス等の映画を観ることができる貴重な場所。今年のエルメスの年間テーマ Chic, le sport!(スポーツは素敵!)に因み、通年でスポーツ映画特集が組まれている。これまでフランス映画ばかりかかっていたこの場所で、初の日本映画(「ピンポン」)がかかったことが静かに話題になっていたし、月替わりのプログラムはどれも魅力的。


度肝を抜かれたのは夏に「泳ぐひと」がかかったこと。アメリカン・ニューシネマの怪作。DVD化され、レンタルもされてるけど、ほとんどスクリーンにかかわらない。バート・ランカスター演じる落ちぶれた、かつて富裕層に属していた男が、友人の家のプールを泳ぎ繋ぎながら家に帰る、という奇妙な計画を実行する物語。映画そのものもものすごくシュールだけど、あの映画が銀座の一等地に建つ煌めくメゾンエルメスの、「スポーツは素敵!」特集でかかるという事実が映画以上に不条理すぎて、誰や!この番組作ったやつ誰や!と叫びたくなった。プログラム監修はアレキサンドル・ティケニスという人。要チェック。私が名画座の支配人なら「泳ぐひと」は是非、主演俳優繋がりでヴィスコンティ「山猫」と2本立てで番組を組みたい。イタリアで没落した貴族が→アメリカに新天地を求め→一度は成功するが→また落ちぶれて怪しい行動に出る、という流れがバート・ランカスターの名演で楽しめる!


11月の1本はジュリアン・ファロー監督によるドキュメンタリー「オリンピア52についての新しい視点」。ヘルシンキオリンピックが開催された1952年、クリス・マルケルによって作られたオリンピック記録映画「オリンピア52」は、作家本人により意図的にフィルムの墓場に葬り去られている。ジュリアン・ファロー監督はフランス国内に数本存在するフィルムを集め、「オリンピア52」という映画と、映画が作られた当時の製作環境、クリス・マルケルの視点、さらには「過去の作家が葬り去った映画を、別の監督が検証する」こと自体を検証していく面白い作りの映画。「ふたりのヌーヴェルヴァーグ」を観た時も思ったのだけど、フランスのこういうドキュメンタリーって監督本人の妙な色気が出てしまってるというか、この映画でいうと、黒い服を着た美しい女にフィルムの墓場に侵入させ「オリンピア52」を蘇らせる監督の目の化身のような動きをさせる場面がちょいちょい挿入されるのだけど、それがちょっと鼻白む感ある・・。


しかし断片的に観ることができるクリス・マルケルの「オリンピア52」は検証に値する作品。クリス・マルケルの長編デビュー作だし、作家が封印してしまっているので現時点ではこのドキュメンタリーを通じてしか内容を伺い知ることができない。クリス・マルケルは報道の立場からオリンピックを観たわけではなく、撮影場所もスタジアムの一般スタンド席。公認放送クルー用の設備は一切使わせてもらえないというハンディキャップを逆手に取った自由な記録。感動や汗や愛国主義からは距離を置いた視点から、競技前の選手の様子やスタンドの熱狂を記録している。また、かつてのメダリストのその後を追い、フランス国民を熱狂させたメダリストがその後も厚遇され続けるわけではなく貧しく落ちぶれている様子も記録しており、このドキュメンタリーではこの部分についてフランス政府から入った検閲(「貧しい」という言葉を削除するように検閲が入ったんだっけな)についても触れている。


特に面白いと思ったのが、スタジアムに座ってる客の中に、アラン・レネの姿が映っているのだが、実際にはアラン・レネはオリンピックを観ておらず、この部分はクリス・マルケルによるフィクションらしい。「オリンピア52」は記録映像ふうのフィクション映画なのか。考えてみればクリス・マルケルは実体の掴めない不思議な作家で、監督名も本名ではなく・・・マルケルは「何でもメモして記録するやつ」という彼の行動からついたmarker(マーカー)というニックネームからとられているし、クリス・マルケルという名前以外にも複数の名前を使い分け、表舞台に出ることを好まず、写真を求められると飼い猫の写真を出していたらしい(ちょっと萌える・・)。私が初めて観たのは「ラ・ジュテ」で、そのせいでオルリー空港に行くとどうしてもあの映画に思いを馳せないわけにはいかないパブロフの犬的反射反応をしてしまうのだけど、パリで観たクリス・マルケルは映画ではなくナム・ジュン・パイクばりのメディアアートで、しかしその展示室に居るときの私の気分は「ラ・ジュテ」を見終わった時の気分に酷似しており、表現手段は変わってもクリス・マルケルはクリス・マルケルだなぁ・・と思ったりした。その後も「サン・ソレイユ」等々観てはいるものの、全貌をまるで掴めない透明な存在である。


クリス・マルケルは2012年に亡くなったけど、この映画は亡くなる前のクリス・マルケルをつかまえてメールでコンタクトをとることに成功しており監督とのメールのやりとりも「オリンピア52」の映像同様貴重なもの。画面に広がるクリス・マルケルのメール文章は、ボーカロイドのような加工された音声で読み上げられ、彼の映画のナレーションそのもののような禅問答みたいな文章をさらに謎めいたものにしている。


ドキュメンタリーを見終わってきっと誰もが思うこと・・「オリンピア52」をフルで観たい!きっとこのドキュメンタリーの数十倍面白い映画のはず。クリス・マルケルって知名度のわりに東京で特集上映めったにされない人だと思うのだけど、是非映画作品以外の活動も体系的に網羅した特集を組んでもらって再発見したい。


この特集上映、是非東京でお願いします!
http://www.yidff.jp/2013/program/13p3.html


この映画は今年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でも上映され、そちらのバージョンは字幕を嫌ったクリス・マルケルの意向を汲んで日本語による同時通訳がついたらしく、同時通訳をパリでお会いしたともこさんが担当されたとのこと。東京で観たい!と思っていたら案外早く叶ってしまった。私がメゾンエルメスで観たバージョンは松岡葉子さんによる字幕がついていた。

2013-12-04

La Sirène du Mississipi



ドヌーヴ特集でトリュフォー「暗くなるまでこの恋を」を観る。


字幕は山田宏一さんによる新訳。豪華!


映画監督の人生、誰かひとり選んで生きることができるなら、トリュフォーの人生を生きたい。幼少期〜思春期までの家庭生活は大変だったけど、それを題材にした長編処女作が大ヒット、過去をきっちり清算し世に出るきっかけにした後は政治も暴力も好きじゃないから恋愛映画しか作らず、主演女優と軒並み恋に落ち、脚フェチだから膝上丈のスカートにミディアムヒールのパンプス履かせて舐めるように撮り、私生活での女との会話もちゃっかりセリフに使っちゃう。最後の女も脚がとても綺麗だからレオタードみたいな衣裳着せて撮るし、俳優には俺は女が好きなんだぁぁぁ、愛に生きるのだぁぁぁって叫ばせて、タイトルはオープニングじゃなくてエンドロールで、えーただいまお届けしましたのは「日曜日が待ち遠しい!」でした、チャンチャン!の背景は幼女の脚が並ぶ青田買いショット。この中で俺好みの脚に成長する娘は誰かなーって。って映画撮ってるうちにあっけなく死んじゃった。なんと見事な男の人生。映画も人生もどこで切っても金太郎飴みたいにトリュフォー。


トリュフォーの言葉で好きなのが「映画とは、過激なまでにパーソナルでなければならない」というもので、私の最近のモットー(映画を人生に置き換えて)でもある。この言葉どおりの映画人生を生きた人だと推測するのだけど、「暗くなるまでこの恋を」も見事にトリュフォー映画。こういう男を許容するならきっとトリュフォー映画も好きだし、そうじゃなければ面白くない人にはまったく面白くないのだろう。


1969年の映画。推理小説を原作にし、尊敬していたヒッチコックタッチのサスペンスに仕立てたい意欲が透けて見えるが、2時間のうち意欲が持続しているのは冒頭30分で、残り90分はそんな意欲はとっくに忘れて愛だの恋だのしか描いていない。「恋愛日記」を観たとき、あまりに眠くて→途中寝て→起きて画面を見たら男が女の脚を追いかけまわし→また寝て→起きて画面を見たら男が女の脚を・・・のエンドレスループ鑑賞になったことがあったけど、これこそトリュフォーの由緒正しい鑑賞法だと信じてる。「暗くなるまでこの恋を」も途中睡魔に襲われたけど、数分ロスしたところで相変わらず愛だの恋だの言ってて鑑賞に何の影響もなかった。


島に住む金持ちの男のもとに、新聞の相手募集欄で知り合い文通しただけの女が嫁いでくる。交換した写真では地味で大人しそうな女だったのが、嫁いできたのは別人物、美しく謎めいたドヌーヴ。謎が物語に適切に機能するのは冒頭30分だけで、残りはベルモンドとドヌーヴの恋の物語なのだが、女の素性が明らかになってからのほうが2人が素直になり、破綻したはずの夫婦が夫婦らしくなっていき、最後30分に至ってはシリアスなはずなのにかけあいが夫婦漫才みたい。1つの映画の中で2人の関係が3段階ほど、まるで違う映画みたいに前後不覚に変化していくのを、遠くでトリュフォーがなんかやってんなーと観てるこちらもダラダラしながら眺めるのが楽しい。ベルモンドも冒頭30分は大人しく、いつものイメージから遠いけど、途中で人を殺して逃亡し始めるあたりから俄然魅力が増してくる。やっぱベルモンドは人を殺して逃げてこそベルモンド。ホテルの壁をよじ登る、やたら運動神経の良いベルモンドも堪能できるサービス精神に満ちた映画。


トリュフォーとドヌーヴはこの映画が初顔合わせで、案の定、撮影中に恋に落ちたと聞くと、本当は緊迫したサスペンスになるはずが、冒頭30分撮ったあたりで恋愛が盛り上がってしまって、作品に滲み出てしまっただけなんじゃないか?と勘ぐってしまう。トリュフォーがつきあい始めたばかりのドブーヴに惹かれる自分をうまくコントロールできておらず、途中から呆然と美しさを讃えるしかできなくなって映画としての混乱やドヌーヴの役のキャラクター造形の破綻に繋がっているように見える。「愛は苦しいもの?」「そう、愛は苦しい」「でも、きのうは歓びだと…」「愛は歓びであるとともに苦しみだ」って後に「終電車」でも再現されるセリフ、これ私生活できっとトリュフォー言ったね・・?


トリュフォーがヌーヴェルヴァーグっぽいのはフィルモグラフィの前半だけで、この映画前後から一気にヌーヴェルヴァーグ以前のフランス映画の正調、メロドラマ調・・「肉体の悪魔」とか「居酒屋」とか「望郷」とか・・ああいう風になっていく。私はメロメロしてる後半のトリュフォーのほうが素直に本領発揮してて好きだな。

2013-12-02

Manon70

 
 
スクリーンでクラシック映画の中の美女を堪能するシリーズ、オードリーに続く第2弾はドヌーヴ。1967年のフランス映画「恋のマノン」を観た。「マノン・レスコー」を当時のフランスに置き換えた設定で、美しい女が男どもを手玉にとる物語。
 
 
 
ドヌーヴが美しさの極みで、60年代らしいカラフルなウンガロの衣装を着替えまくる。オープニングがファッションショーの舞台裏でモデルたちが着替えまくる華やかさ(ミニスカートにニーハイブーツ、その下にカラフルなストッキングを身に付けており、あまりフィット感のなさそうなシフォンみたいなストッキングなのが面白い)、冒頭のシーンは日本の空港。あれは当時のリアルな日本の空港・・?「ティファニーで朝食を」のMr.ユニオシの部屋ばりに作られた嘘くさい和風感だったけど、セットだったのかな。マノンに一目惚れした男が、彼女にあわせてエコノミーからファーストクラスにアップグレードするとき、差額が15万円ほどで、ドルに換算すると約500ドルですわ。と、航空会社の女が男に告げる。1ドル300円時代。
 
 
 
例えばサスペンス映画で、緊迫した場面で電話が鳴るとき、電話機をズームで写すような映画はダメダメなB級C級映画である。って誰の言説だっけ。ってのを思い出すほど、ドヌーヴが美しくて衣裳がウンガロだという以外に魅力を見つけられない、編集でズタズタに短くしたくなるほど、どうでもいい場面がひたすら間延びして長いダラダラした映画で、これまでこの映画を観る機会がなかったのが理解できたのだが、ドヌーヴ以外にも眼福はある。相手役のサミー・フレイがドヌーヴに平等に釣り合うほどに美青年。
 
 
 
 
「はなればなれに」で、アンナ・カリーナの画面右で踊る男、サミー・フレイ。この映画の時はこれほど美青年とは気づかなかった。
 
 
 
 
私生活ではバルドーの恋人だった時期もあるらしい。美男美女。アラン・ドロンほどアクが強くなく、さりげなく美女の隣にいるのが似合う。アラン・ドロンだとさりげなく存在するのは無理だものね。
 
 
物語は、金ヅルにしようと思って金持ち親父に近づくも、計画が失敗に終わり、身ひとつで投げ出された2人が裸足でヒッチハイクするところで終わる。男が女に言う「誘惑するのは得意だろ?」ってセリフも良いし、2人に漂うなんやかんや言うてもヒトとして気が合ってる感も良い。豪華な衣裳を着替えまくったドヌーヴが最後は質素に、ニット、デニム、裸足、ハンチングのシンプルな装いで、結局それが素材の良さをいちばん引き立てて素敵という時代は前後するけど「プリティ・ウーマン」のジュリア・ロバーツ方式。最初と最後が良く、美男美女と衣裳を楽しめ、それだけでこの映画はじゅうぶんに良い映画なのかも。