CINEMA STUDIO28

2014-01-30

Chronicle / Trance

 
 
何が新しくて何が古いのか判断する能力なんて自分にはないけど、週末、早稲田松竹でダニー・ボイル「トランス」と、ジョシュ・トランク「クロニクル」を続けて観ると、ダニー・ボイルってもう過去の人なんだなぁ。って思ってしまった。主演俳優が友人に似てること、女優さんはどこかで見たことあるな?と思ってたら「デスプルーフ」で最後にこの世でいちばん素敵なかかと落としをキメてくれたあの娘であること、ヴァンサン・カッセルは個性的な男前で堂々たる体格なのにちょっとマヌケな役がハマるのは何故だろうか不思議なこと。など、変な方向にばかり興味が湧いてしまい、まるで物語に集中できないうちに終わってしまった。
 
 
 
 
「トランス」が古いわけじゃなくて、もしかして「クロニクル」が新しすぎちゃって「トランス」が損な役回りになってしまっただけなのかしら。去年の秋に最初に観た「クロニクル」、観終わった後、呆然として周囲に薦めたのだけど、誰もピンと来てなかったのは「男子高校生が超能力を手に入れる物語」ってあらすじにも、スチルやタイトルにも名作の香りがまったく漂わないからなのかな。
 
 
85分という短さがまず素晴らしい。編集が絶妙。とても速い。高校生が撮った映像を繋げたというつくりにしているからか、youtubeを適当にウロウロしながらひとつひとつを最後まで見ずに次の映像にどんどん乗り移っていくみたいな85分。学園モノはアホになるかシリアスになるか匙加減が難しいけど、どっちも盛り込みながらシリアスな顔をした他の映画よりよほど青春の普遍に触れている。せっかく超能力を手に入れても、彼の問題は何ひとつ解決しないのが切ない。
 
 
うまく「クロニクル」の魅力を伝える言葉が見当たらないまま、薦めたうちのひとりが早速観てくれたようで、やはり興奮しつつ、タイトルやあらすじのせいで埋れてしまいそうなのが惜しいと言っていたので、酷いタイトルつけられたせいで面白いのにメジャーにならない映画シリーズより2本「ラブ・アゲイン」「スーパーバッド童貞ウォーズ」を追加強力お薦めしておいた。アメリカの青春学園ものが好き!おバカであればなお良し!な私の映画嗜好って何が起因なんだろうか。前世はもしかしてプロムの前日に事故に遭い非業の死を遂げたアメリカの男子高校生だったのかもしれない…。

2014-01-27

Bluebeard's eighth wife / Hets

 
 
シネマヴェーラ「映画史上の名作」特集で。ルビッチ「青髭八人目の妻」、1938年アメリカ。脚本はチャールズ・ブラケット&ビリー・ワイルダー!主演はゲイリー・クーパー、女優はクローデット・コルベール。いかにもルビッチの画面に似合う粋な女優さん。
 
 
 
挙式当日に結婚相手が7度も離婚歴があると知った女、そんな夫婦の結婚生活を巡る攻防。冒頭、デパートでひとつのパジャマの上と下を別々にそれぞれ買う出会いからラストまで洗練されたセリフの応酬にうっとりしたりクスクスしたりしてる間にあっという間に終わってしまう面白さ。海の場面が合成バリバリなのがとても良い。明らかに背景から浮いてる車の運転シーンなど、昔の人々ができるだけ現実っぽく見せようと頑張った、努力の跡が垣間見える合成バリバリの映像を眺めるの、クラシック映画の醍醐味だと思う。女優に着せる衣装のセンスが良い映画監督にハズレなし。の法則に気づいたのは仕立屋の息子・ルビッチの衣装センスに驚いて以来。それから、ルビッチ映画に登場する女性はみんな、富豪と結婚して旦那の稼ぎで悠々自適だろうが何だろうが、すぱっと自分の足で立つ女ばかりなので観てて気持ちがいい。エンドマークを見届けた後はいつも、この世にこんな完璧な映画ってある?って感激しきり。
 
 
 
 
 
併映はアルフ・シューベルイ監督「もだえ」、1944年スウェーデン。カンヌで2度もパルムドールを獲ってる監督とのことだけど、観るのはきっと初めて。観たいと思ったのは、原案・脚本がベルイマンと知ったから。
 
 
 
 
高校を舞台に、ひとりの女性を巡って高校生と教師が三角関係に。しかしこの教師がサイコパスで女性を徐々に追い詰めていき・・という物語。まず、1944年スウェーデンの高校生がまるで高校生に見えず30代ぐらいに見える。しかし彼らが青春の苦悩に「もだえ」てる様子はどの時代も高校生らしいのであった。女の部屋で目覚めた高校生が、朝ベッドで「女の部屋で目覚める。これぞ男の夢だね」って言いながらお菓子を食べるシーンはキュートだったな。徐々に静かに狂気を増してゆくサイコパス教師の描写(壁に映るモンスターみたいな影!)は緊迫感があり、絶望から立ち上がる高校生のラストの描写は、たしかにベルイマンの香りがした。
 
 
今回もハズレなしで堪能した「映画史上の名作」特集、私はこれにて見納め。毎回楽しみにしてる固定ファンも多そうな企画。私ももちろんそのひとり。次回のラインナップも期待!

 

2014-01-21

Come and get it / Die austernprinzessin

 
 
大晦日、シネマヴェーラで観た映画。「大自然の凱歌」、1936年アメリカ。ウィリアム・ワイラー、ハワード・ホークスが共同監督。前半をホークス、後半をワイラーが撮るという変わった作られ方をしているらしい。
 
 
冒頭の何分か、木を伐採して川に流すダイナミックなシーンがあり、なるほどこのタイトルだもの、自然の中で暮らす人々の物語なのね・・って筋書きを知らずにのほほんと眺めてたら違った。何なのですかこの邦題は・・?
 
 
この ↑ ポスターど真ん中にいる男が主役なのだが、粘着質の荒くれ者というかなり苦手なタイプ。ロッタという女に恋をするも、別の女との結婚が決まりかけていたため泣く泣くロッタを友人に譲ったものの、何十年かぶりに友人に再会しロッタは亡くなったと知らされ、生き写しのような美しい娘が男の人生に現れる。父と娘のような年齢差で妻も子もいる身なのに、男はこの娘への執着を隠そうともせず・・・という展開で、最後の最後、美しい娘は実の息子と駆け落ちし、残された男は冒頭と同じ場所で鐘を半泣きで力いっぱい鳴らすのだった。って、母との関係なぞ知るはずもない娘からすれば不気味ですらある男の振る舞いを、まるで男のロマン!泣かせるじゃないか!ってちやほや描くストーリー、さすがワイラー&ホークスだもの、映画としてつまらなくはなかったけど、男があまりに迷惑なセンチメンタル野郎すぎて鼻白んだ。泣き笑いで鐘鳴らすおっさんより、伐採して川に流すみたいな、おおおおお!さすが大自然の凱歌であるのう!って圧倒される場面ばかり100分ほど観たかったよよよよ・・・
 
 
 
 
気をとりなおして。2013年、映画納めと決めてたのはエルンスト・ルビッチ1919年の作品「牡蠣の女王」。ルビッチと牡蠣、大好物が2つ、奇跡の融合。2012年の映画納めもルビッチ「男になったら」だった。できれば毎年ルビッチで映画納めするような幸せな映画生活を送りたいものです。主演女優も2年連続オッシ・オスヴァルダ。
 
 
牡蠣で富豪になった社長の令嬢オッシが、友達が貴族と結婚したのが悔しくて、きいいい!私も貴族と結婚するんだー!と奮闘するコメディ。オッシ嬢、「男になったら」でも思ったのだけど、楚々とした女優かヴァンプ女優かどっちかしかいなさそうなこの時代の映画群であまり登場しないような、表情も動きも自由すぎる、人間と動物の中間あたりの位置にある面白い生命体。怒るときは物投げて野獣みたいに暴れる。ひとたび恋に落ちたら、恥じらいもなく気持ちの交歓なぞしゃらくさいとすっとばし、すぐに肉体接触に持ち込むあたり、100年近く前の嫁入り前の女性と思えない肉食っぷりは外見から意表を突かれる唐突なセクシーさ。ルビッチの画面はあいかわらずお洒落!で、いつも楽しみな衣裳(男性のやたら高い襟のシャツが気になった。あれは10年代の上流階級の流行?)から、オッシの住む豪華な家の内装、ずらりと並びオッシをせめて女らしく整えようと奮闘する召使たちの整列っぷりに至るまでどの瞬間も完璧だった。猛獣女の扱いも見事なルビッチ、きっと女性にモテたんだろうな・・。
 
 
ちなみに牡蠣はまったく映画に登場しない。タイトルから想像できない中身の映画2本で2013年を締めた。

 

2014-01-20

Cinema memo : Jacques Tati!!

 
ジャック・タチ、10代の頃に京都、三条河原町上がったところにあった今は亡き朝日シネマのレイトショーで喰い入るように観て以来、ずっと好き。いつも終電ギリギリで毎晩、三条京阪まで走って電車乗ってた。
 
 
4月、イメージフォーラムでジャック・タチ映画祭とのこと!ラインナップ観ると、珍しいのあるなーと思ったら、全監督作一挙公開とのこと。これはレアやで・・(涎)
 
 
長い映画鑑賞生活で意識せずとも積もりゆくタチアイテム。ブルーのチラシはいつのだろう?ヴァージンシネマズ六本木ヒルズって書いてある。TOHOシネマズ化する前?特集といえば定番は「ぼくの伯父さん」シリーズ、「プレイタイム」プラスαなのよね、いつも。今年のイメージフォーラムのは豪華。
 
 
今は亡きエスクァイア・マガジン・ジャパン発行のタチ本。2003年の本。エスクァイアの映画本は今でも持ってるのが多いなあ。
 
 
 
これは2007年、パリのシネマテークの本屋で買ったタチ特集。
 
 
4月、上映される予定の「フォルツァ・バスティア」は去年メゾンエルメスのスポーツ映画特集でかかったのを観た。撮ったもののタチが撮影に満足せず公開拒否してお蔵入りだったのを、娘さんが2000年に編集したというレアもの。地元のチームが史上初のサッカー・ヨーロッパ杯に出場することになったのを喜ぶコルシカ島の人々を撮ったドキュメンタリー。ドキュメンタリーのはずなのに、次第に島の人々がタチに演出されてるみたいな動きに見えてくるのが見もの。
 
 
メジャーどころでは「ぼくの伯父さん」シリーズも好きだけど、「プレイタイム」が得体の知れない狂気を感じて一番好き。東京っていつもどこかで魅力的な映画がかかってて身体がいくつあっても足りない。4月が待ち遠しい!

2014-01-18

Before midnight

 

ヒューマントラスト有楽町で。リチャード・リンクレイター「ビフォア・ミッドナイト」初日の初回に観た。満席ではなかった。

 

ウィーンでの出会いから18年、パリでの再会から9年、舞台は2人とその家族が高名な作家に招かれヴァカンスに訪れたギリシャ。これ以降は内容に触れまくるので、まっさらな気持ちで観たい人はここでさようなら。

 

http://beforemidnight-jp.com/

 

前2作を直前に復習し、余韻を引きずったまま観たので意表を突かれた。これまでこのシリーズに漂っていた甘さはすっかり消え失せている。現実的な、長らく連れ添った2人の真剣で長い痴話喧嘩が延々続く。犬も喰わない・・と言いたいところだけど、相変わらず会話が面白いので集中力は途切れなかった。

 

しばらく前、京都、堺町のイノダコーヒ本店で母と珈琲を飲んでいたとき、近くに60過ぎと思われる男女が座っていた。母はその風景を眺めながら「あの2人、絶対に夫婦やと思うわ。だって何も喋ってへんやろ。私もお父さんと2人きりの時なんて、ほとんど何も喋らへんのよ」と言ったので、ふーん、そういうものか。と思ったものだけど、セリーヌとジェシーは違う。この2人には沈黙という概念はないらしく、ギリシャの風景を見ては喋り、誰かの言動を思い出しては喋り。言葉が泉のように湧き出てくるのだ。ずっと話していられるから相性がいいとは言い切れないと思うけど、この2人にとっては会話が関係のかなり重要な要素なのだろう。

 

招かれた作家の家でのディナータイムの会話も良かった。2人がちょうど中間世代で、年老いた男性、女性、そして出会った頃の2人のような若いカップルが同席する。かつての彼らそのもののような20代の2人は、彼らのように出会ってすぐに離れ離れになるものの、文明の利器をうまく活用し、今は好きだけど、どんな関係もいつか終わるものでしょ、とクールな態度でいる。年老いた人々は、夫を亡くした女性が、何が寂しいかをしんみり語り、テーブル上に2人の過去、現在、未来が並んでるような場面だった。

 

仲間たちが2人にプレゼントしてくれた子供を抜きにした、ホテルでの2人きりの夜の場面は、ホテルの部屋での長い長い喧嘩の場面で、セリーヌがはだけた胸を隠しもしないで、電話に出たり、喧嘩し続けたりするあられもない姿にハラハラした。スリップドレスはストラップを肩でリボン結びするようになっており、ジェシーがリボンを解いたくだりまではロマンティックだったけど、その後訪れたロマンティックな気分の崩壊、現実味溢れる痴話喧嘩の最中も、セリーヌはストラップを結ぼうとはしない。腰でとまったままのスリップドレス姿で、胸を晒しながら部屋中を歩く姿は、ずいぶんふくよかになったセリーヌの二の腕や垂れた胸、腰周りを無残に強調し・・思わず力士の化粧まわし姿を想像してしまった。強烈すぎる。彼女自身の監督作で、デルピーについて詳しくなったつもりでいるからか、セリーヌはデルピー要素に満ちており、対抗するジェシーとのパワーバランスが崩れているようにも見えた。終幕のやりとりは、ロマンティックでない物事が、一周まわってむしろロマンティック、みたいな着地に思えた。そのあたりを確かめに、公開中、もう一度観に行くかもしれない。

 

 

直前に前2作を復習してしまったからか、一昨日観た18年前の2人の姿が目の記憶に残っており、2人の現在の姿に時の流れを感じずにはいられない。冒頭、空港の前に停めた車にセリーヌが乗り込む、デニムを履いた後ろ姿にぎょっとした。昨夜観たパリでのセリーヌもデニムを履いていたけど、明らかに数インチ、サイズアップしたデニムにみっしり肉が詰まっている。2人ともスターのはずなのに、美を保つことにたいしてご執心ではない様子。でも、こういう写真 ↓ 観ると、やっぱりオーラあるのよね。スクリーンの中の2人の姿が役作りだとしたら素晴らしい成果・・。

 

 
率直な感想としては、昨夜観たパリでの2人の物語のほうに、私はより共感した。公開当時に観た時より、ぐっと身に沁みる物語だと思えた。おそらくこれは、私自身に理由があって、新作に感情移入するには私の人生経験がその段階に入っていないのだろう。今週読んだ、恋愛はユーティリティソフト、結婚はOSという面白い文章があって、
 
 
前2作はユーティリティソフトの話で、新作はOSの物語。私は私というOS の上に、ユーティリティソフトをインストールしてみたり、アンインストールしてみたりという人生の段階にいるのだから、あと10年ほど経って環境が激変していたらきっと共感しきりなのだろう。これが完結とは誰も言ってないみたいだから、また10年くらい後に続編が生まれるような気がする。

 
初めて知った事実として、セリーヌにはモデルとなった女性が存在し、1作目は監督自身とその女性のエピソードが下敷きになっているらしい。再会することはなかったその女性が、25歳になる前に事故で亡くなった事実を監督が知ったのは3年ほど前らしい。フィクションの中で、セリーヌと名前を変えて人生の続きを生きるAmy Lehrhauptという女性に、最新作は捧げられている。

 

2014-01-17

Before sunset

 
 
復習、間に合った。「Before sunset」無事に見終わり。昨夜、ウィーンで出会った23歳という設定のふたりを見た眼で今夜、パリで再開した32歳の2人を見ると、9年という年月は、顔にあった薄く柔らかな脂肪を奪い去り、頬骨を目立たせ、目の窪みの位置や額の皺の位置を示すのにじゅうぶんだったのだな、と思い知らされる。そして自分も同じだけ年をとっているのだ。「Before sunset」の公開当時、私は東京に住んでいて、確か恵比寿ガーデンシネマで観た記憶があるけど、映画館ももうなくなってしまったし、その後、東京パリ東京と移動して何度も引越しをし、仕事も変わり、あの頃周りにいた人たちもほとんど今はおらず、あの頃着ていた洋服もほとんど今は持っていない。長い年月というのは、人の生活をすっかり変えてしまうものだな。映画の中でも、現実でも。
 
 
「Before sunset」観た後、はたしてジェシーは飛行機に乗ったのか?乗らなかったのか?を何人かと話した記憶がある。みんな「乗ったと思う。彼にはアメリカに家庭があるのだし」と言って「きっと、乗らずにパリに残ったと思う」と言ったのは私だけだった。当時の私が今より多少ロマンティックだったとして、今観たらどう思うかな?と考えながら観終わり、やっぱり今の私も、ジェシーは飛行機に乗らないのだろうな、と思った。
 
 
これはきっと願望まじりのロマンティックな観測などではなく、2人の行動を冷静に観察した私なりの結論。特にジェシーの言動は、このような発言で、このような表情の男であれば、きっと「運命の相手」にこだわって、現実を捨てるであろうと思わせるにじゅうぶんだと思ったのだ。そしてセリーヌの側にも付け入る弱みはおおいにあった。最後にたどり着くセリーヌの部屋は彼女らしい生活感に溢れており、ジェシーにこの部屋で一緒に暮らす自分、キッチンでカモミールティーを作りながら踊るセリーヌを眺める日々を妄想するにうってつけすぎる環境だった。そんな夢の中にいるような時間を経て、うまく現実との折り合いをつけられるような男には見えなかったのだ。
 
 
 
 
明日から公開される3作目「Before midnight」について情報をとりすぎないように注意しつつも、漏れ伝わるあらすじによると、2人は結婚したのかどうかわからないけどとにかく一緒に暮らしており、子供も産まれたらしい。 次の舞台はギリシャとのこと。もうきっと会うこともない、前作公開後にあーだこーだ話した人々の目をじっと覗き込んで「ほらね、飛行機にはきっと乗らないって言ったでしょ?」って、したり顔で言い放ちたい気分。仕事の帰りに映画館に寄って明日のチケット、しっかり確保。
 
 
Bon week-end!

2014-01-16

Before sunrise

 
 
シリーズ第3作目「Before midnight」今週末から公開されるので、前2作の復習。(ふくしゅうってタイプしたら最初に変換されたのが「復讐」で、我ながらどうかと思ったところ) この2人の物語に続きがあるとは思ってもいなかった。借りに行く時間がない・・と思ってたら、iTunesでレンタルできた。21世紀だった。
 
 
 
 
1作目「Before sunrise (恋人までの距離)」、今の自分には甘すぎるかと思ったけど、やっぱり良かった。1作目の製作段階から続編を想定していたのか、2人のキャラクター造形がしっかりしていたということなのか、2作目のパリでの2人と脳内比較しながら観ると、時間は人を成長させるのか、やっぱり人は変わらないということなのか、よくわからない気分になりつつ最後には、人は決して他人にはならないし、自分なりに頭や心を使って考えた方角に向かって行動していくのだな、と思った。自立した女性になりたい、男にかしずく女にはなりたくないと願った、ウィーンでは学生だったセリーヌは、数年後の再会のパリではしっかりそのような女になっていたのだから。
 
 
何年か前にNHKで放送されその後に劇場版が公開された、阪神大震災当時こどもだった男女が大人になって神戸で出会って夜の神戸を歩く「その街のこども」を観たとき、震災のその後の話ということ以上に、見知らぬ男女が偶然出会って、ひたすら話しながら夜の街を歩く筋書きに「Before sunrise 」を思い出し、「その街のこども」をとても気に入った私は、このような筋書きの物語が好きなのだな、と思った。1人で過ごすために訪れたはずの普段自分が暮らさない街で、偶然出会う誰かは日常に退屈した身体に運命という言葉を思い出させるのにじゅうぶん。新奇な風景や知らない言葉は生まれたばかりの子供がひとつひとつ世界を捉えはじめるような新鮮さに満ちており、今日出会ったのに明日にはもう別れなければいけない残酷な現実を時々思い出すたびに、最短距離で素直にならなければ。と、たわいのない会話の隙間に自分に言い聞かせるのだ。私もこれまでの人生で何度かそんな夜をいくつかの街で過ごしてきた。続編があろうとなかろうと、振り返ると人生最良の夜のひとつであったことには変わりはない。
 
 
「Before sunrise 」、レコード店の試聴室のシーンがやっぱり良いなぁ。友達に教えてもらった曲を狭い小部屋で試聴したら、偶然にも歌詞がふたりの気持ちを代弁しているような奇跡。駅でのラストシーンは、人はやっぱり約束を欲しがる生き物なのかな、と思った。「Before sunset」をこの後、眠くなるまで観るよ。

 

2014-01-11

The beautiful blonde from Bashful bend / Go for broke!

 
 
シネマヴェーラ「映画史上の名作」特集、隙をみてコツコツ観てる。年末に観た2本について。
 
 
プレストン・スタージェス監督「パシュフル盆地のブロンド美人」1949年アメリカ。
 
 
スタージェス、シネマヴェーラの夏にあった映画史上の名作特集で遅ればせながら初めて知って熱狂。その時観た「パームビーチストーリー」は「結婚5年目」という別のタイトルで日本ではソフト化されてるらしい。今回観た「パシュフル盆地の・・」が私のスタージェス2本めだけど、この2本はたくさん共通点がある。どちらもスクリューボールコメディ(って佳い言葉!)ながら、ルビッチやワイルダーの作風より断然ワイルドで奔放。どちらも必要以上に銃を撃ちまくる人たちが登場するし、どちらも女は慌てて列車に乗り込み偶然着いた場所で人生が新たに展開する。どちらも常軌を逸した強烈なキャラクターが登場するし(パームビーチ・・は列車に同乗するおっさん連中、パシュフル盆地・・は双子の兄弟)、どちらも同じネタの反復(パームビーチ・・は妻のドレスのファスナーを担当する夫、パームビーチ・・は何度もお尻を撃たれる判事)がある。製作当時のアメリカ、今よりもっと保守的だったと想像するのだけど、スタージェスの作風はどう受け入れられたんだろうか。ルビッチやワイルダーほど安心して家族や恋人同士で観られる感じでもなく、観る人を選んだんじゃないかなぁ。
 
 
しかしスタージェスの映画は勝気なヒロインばかり登場して痛快。やはり女は周りを気にしないほうが美しい。「パームビーチストーリー」は女は身一つで逃げても、色目を使って列車に無料で乗れるし、手ぶらのほうが新奇な出来事に出くわしがち、という映画だと理解したし、「パシュフル盆地・・」は芸は身を助けるから拳銃操作は怯むより修得したほうが人生のためだし、浮気男に耐える必要なんて1ミクロンもない、という映画だと理解した。「パシュフル盆地・・」陽気な主題歌も見事。スタージェス、もっと観たい。
 
 
スタージェスについて詳しい記事。特集上映してほしいなぁ。
 

 
 
もう1本はロバート・ピロッシュ監督「二世部隊」1951年フランス。・・・と書いて驚き、フランス映画だったのか!アメリカだと思ってた。戦争映画ってほとんど観ていないけど、これは珍しい部類の映画ではなかろうか。
 
 
第二次世界大戦中、日系人のみで編成されたアメリカの部隊の活躍を描く。日系人という理由でアメリカ人の将校たちからの蔑視も受けていたけど、勇敢に戦ってたくさん褒章もらいましたよ、という映画なのだが、映画自体のおもしろさは途中でどうでもよくなり、こんなニッチな映画、どういう理由で作られて公開当時はどういう反応だったのだろうか・・と考えてしまった。同胞がんばりましたよ、という日本の映画なら理解できるのだけど、アメリカ人として戦う日系人を描くフランス映画・・。戦争シーンの再現は真に迫っており、爆破も多くて制作費もそれなりにかかってそうなんだけど・・ちゃんと回収できたのかしら・・?と妙なことばかりつい気になり、たいした感想も抱けないままエンドマーク。

 

2014-01-05

もらとりあむタマ子

 
映画初めは新宿武蔵野館で「もらとりあむタマ子」、山下敦弘監督、前田敦子主演。1時間少しの中篇は、もともと15秒だか30秒だかのスポットCMシリーズとして作られたものだとか。
 
 
 
 
大学は出たけれど就職活動がうまくいかず、何の展望もないまま甲府の実家に帰省したタマ子の秋、冬、春、夏まで。実家は「甲府スポーツ」というスポーツ用品店で、父親がそれを経営しながら暮らしている。母親は離婚したのか離れて暮らしていて、おじさん夫婦が近くにいるという環境。
 
 
秋冬のタマ子は無脊椎動物みたいな動きで、主に床、畳、布団の上に生息しており、滅多に起きあがらない。起きあがるにしても足から動かずとりあえずお尻を動かし徐々に立ち上がるノロノロした動きで。まだ23歳の女の子なのに、新たな生命体(無脊椎)を発見したようにスクリーンを凝視してしまった。冒頭から父親が作ったと思われるロールキャベツを食べるのだが、皿にかけられたラップを全部剥がさず、6割ほどだけ剥がしてがつがつ食べる。ロールキャベツ、たぶんチンしたほうが美味しいし、チンしないとしてもラップぐらい全部剥がして食べようよと思うのだけど、タマ子の不機嫌さ、雑さがぐっと凝縮されたオープニング。父親と、店にやってきた近所の中学生男子を巻き込んで、無脊椎動物がのろのろと立ち上がっていく様子が60分少しで描かれる。普段これぐらいの長さの映画を観るときはあっという間に終わった感覚しか残らないけど、この映画はもっと長い映画を観た感覚が残った。タマ子と周りにいる人々の仕草やセリフのすみずみまで漏らさないよう注意しながら観察していたので、何倍にも感じたのだろう。
 
 
とにかく前田敦子の映画。AKB時代から面白い女の子だなと、奇妙な生き物を眺めるみたいに観察していたのだけど、AKBのドキュメンタリー映画はしっかり観たものの(そして号泣したものの)ちゃんと演技してるの観たことなかった。あの新橋文化劇場にたった1人で「ゴッドファーザー」観に行く映画好きの20歳そこらの女の子のこと、私が好きにならない理由がない。監督と脚本家が前田敦子にあてがきしたらしいタマ子役は、素の前田敦子そのものというより、彼女のこと面白がって周りにいる人々が、こんな前田敦子の姿も観てみたいな、と作り上げた人物に思えた。
 
 
キラキラのアイドルだった人なのに、地方都市の若い女の子らしいというべきか、イオンやしまむらで売ってそうなぴらぴらの洋服を着て、もしくは高校時代のジャージの上下を着て、ほとんどメイクもせず、美容院(と呼ぶほどのものでもなく、おばちゃんが何十年もやってるようなところ)で不本意な髪型にされても何の文句も言えず、とにかく不機嫌で不細工。最後、ベンチでアイス食べてるあのシーン、あんなアイスの雑な食べ方ってある?美味しそうでもなさそうに雑にアイス食べる顔が、口を開くたびに不格好に歪む。それでもタマ子がアイス食べ終わる頃には、ぐにゃぐにゃの無脊椎動物がちょっと進化した程度の女の子のことも、キラキラのアイドルだったはずなのに画面に可愛く映ろうとまったく思ってなさそうな前田敦子のことも、1時間前よりすっかり好きになってしまっていた。
 
 
タマ子ほどぐにゃぐにゃじゃなくても、誰にでもきっとグズグズした何もうまくいかない時期はあるし、長く続かなくても、家に籠もってひたすら誰かがつくってくれた食事を不機嫌に貪りたい1日もある。12月の疲れて煮詰まった日々を経て、ここ数週間はエアポケットみたいな、華やかだけど自分じゃないみたいな時間が流れてたけど、頬を叩いて日常に戻るべき休暇の終わりに、年明けの最初に、ぐにゃっと立ち上がるタマ子と過ごした1時間は至福だった。あ、タマ子以外にも父親役の俳優さん、あと中学生男子、最高。タマ子が佳き人たちに囲まれてるのは、きっとタマ子によるものなんだろうな。

 

2014-01-04

Super sad true love story

 
 
ゲイリー・シュタインガート著「スーパー・サッド・トゥルー・ラブ・ストーリー」読了。年末年始の享楽的な時間の合間に読み進めていたから時間がかかってしまったけど、ものすごく楽しめた。日本では翻訳が出たばかりだけど、アメリカでは2010年に出版され、その年のニューヨーク・タイムズ年間ベストとのこと。
 
 
西暦何年という設定はないけど、近未来の物語。あらすじから引用すると「経済破綻と一党独裁による軍事化が進むディストピア。誰もが信用度や性的魅力を数値化され、手元の端末でプロフィールまで検索される評価経済社会。本という過去のメディアを愛し、不死を夢見る冴えない(性的魅力が最低ランクの)レニーと、家族と自分の幸せを求めてあがく美しきユーニスが出会う。」
 
 
39歳の男・レニーはロシア系、ロシア生まれで幼い頃アメリカに移住した作者のプロフィールと重なる部分もあり、風貌の描写も写真を見る限り、作者そっくりな感じ。私小説要素もあるのかな。近未来小説ということでイメージしながら読み進めるために主役2名を脳内キャスティングしながら読んだ。レニーは作者自身!

 
 
 
20代の女・ユーニスは韓国系美女ということで、私の一番好きな韓国系美女、少女時代のユナちゃんをキャスティング。
 
 
 
 
この2人の近未来ラブストーリー。インパクトあるぅ!アパラットという首からかける小型スマホのような装置が頻繁に登場し、通行人にかざすだけで見知らぬ誰かのプロフィール・・名前、経歴、職業、収入、性的価値(ファッカビリティと呼ばれている。面白すぎる)まで瞬時にわかってしまう。レニーのファッカビリティは著しく低いのだが、ユーニスを連れて歩いてるだけでファッカビリティが上昇するほどユーニスは美しい・・というくだりがあるので、ユナちゃんほどの美女をキャスティングしてみた。
 
 
400ページに及ぶ長い物語、前半は2人が出会って荒廃したNYで同棲するまでの顛末を、ドルの価値なぞもはや地に落ち、アメリカが中国の属国のような位置にあるほど弱っているという政治経済状況およびアパラットやクレジットポール(近づくだけでその人の資産状況が丸見えになる装置。道にたくさん建っている)など近未来評価経済社会の日常描写が続き、後半は意外なほどクラシックな恋愛の盛り上がりと破綻が描かれる。レニーが克明に心境を吐露する日記と、ユーニスが多用する家族や親友とのSNSのようなサイトを通じたメールやチャットが交互に続き、1組の男女の恋愛が、それぞれの視点から描かれていく様子がおもしろおそろしい。レニーが美しい女と出会って浮かれる様子を日記に綴ったかと思えば、ユーニスはキモいおっさんと出会ったんだけど・・と同年代の親友に打ち明けるといった調子で。
 
 
(ここ以降は結末に触れます)
 
 
近未来ロミオとジュリエットという形容も読了後にはしっくりくる古典的なラブストーリー。後半部分は近未来という設定も忘れるほど、レニーとユーニスの蜜月とその崩壊が描かれる。特徴的なのはアメリカという国家の崩壊と同時進行で描かれること。外出も危ういほどのディストピアとして描かれるアメリカの厳戒生活が2人の関係の進行に、スパイスとして良くも悪くも刺激を与えていく。ユーニスがいっけんまるで相容れなさそうなレニーに惹かれたのは、彼女の完璧な容姿の奥にある絶望的な家庭環境がもたらす諦念が他者につけ込まれる隙を生んでいるように思え、「本」という遙か昔のアイテムをいまだに愛するのは趣味人ではなく変態として奇妙な目で見られるような近未来で、詩や物語を愛するレニーのロマンティックでセンチメンタルな性格は傷ついたユーニスの持つ隙に入り込む要素となり得たと同時に、破綻の要素にもなってしまうのがスーパー・サッド。
 
 
家族や国家が崩壊する時、物語や本は役に立たず、それを信じるレニーもロマンティックなだけで彼女の現実を改善してはくれない。ユーニスがレニーとつきあいながら徐々に惹かれてしまう新たな男が、若く容姿の良い男というわけでもなく、レニー以上に年上(70歳!)だけど、ユーニスの抱える問題を現実的に解消できるほどに権力を持つ男という、2人の男の魅力と弱点の対比もスーパー・サッド。この年上の男の脳内キャスティングは難しいけど70歳に見えないほど若々しく、あやふやな何かを力強く信じる男って例えば70歳になったトム・クルーズなんてどうかしら・・男前すぎるかな・・。70歳時点のクリント・イーストウッドでも良いかも。
 
 
NY戒厳令の日々、レニーがユー二スに「本」を読んで聞かせる場面はあまりにもロマンティック。読む本がクンデラ「存在の耐えられない軽さ」というのも。生まれてからテキストはスキャンしたものを読むだけだったというユーニスが「本」に触れるのだが、物語を理解しているのかしていないのか曖昧なところが、2人のジェネレーションギャップなのか、気持ちがすれ違っているのかはっきり解らないところも良い。映画にするならこの場面はしっかり撮ってほしい。しかし家族問題で切羽詰まった女には、1円にもならない男のロマンティシズムよりも、金と権力で問題を具体的に解決してくれるより強い男に心が動いてしまうのも理解できるよ・・。欲しい何かを現実的に与えてくれる人に惹かれるのは当然のことではないだろうか。
 
 
一瞬であろうと、解り合えたのか曖昧だろうと、トゥルー・ラブ・ストーリーな描写をところどころ感じ取ってしまうだけにスーパー・サッドな展開がなおさら染みてくる。分厚い本を読み終わった頃、ポップなタイトルの持つ意外な重みと、描かれるディストピア、iPhoneみたいなアパラットという装置等の近未来が、案外そう遠い未来ではなく、既に自分たちが片足を突っ込んでいる現在進行形ということに呆然とするのだ。ここ最近映画や小説で触れたどの物語より、現実にあり得そうな物語に思えた。こんなスーパー・サッドな物語が新年最初の読書に相応しかったのかどうかは考えどころ。去年映画版を観て素晴らしかった資本主義(=アメリカ)が破綻する直前の物語「コズモポリス」の続編的な位置づけとして読んでも面白いかもしれない。