CINEMA STUDIO28

2015-02-28

たけくらべの余韻

 
 
今週は病に臥せて、復帰してからも外出は自重していたので、別の物語で上書きされなかったせいか、「たけくらべ」の余韻に浸っている。熱の下がった頭で思い返すに、東大でのイベント、なんと豪華だったことよ。
 
 
最初の1時間、今回の日本文学全集で「たけくらべ」の新訳に挑戦された作家の川上未映子さんが、朗読を交えながら「たけくらべ」について、新訳についてお話しされた。川上さんが初めて「たけくらべ」に触れたのは漫画「ガラスの仮面」で、「たけくらべ」の演技合戦のエピソードがあるらしく、それを読んで、原文にトライしてみようと思ったけど、難しすぎて挫折。その後、19歳の時、松浦理英子さんによる現代語訳に出会い、一気に読了した後、現代語訳を自分で朗読をしたのを録音し、それを再生しながら原文を読む、という試みをやってみたとのこと。
 
 
その再現、ということか、今回は原文の抜粋が配布され(写真)、川上さんによる新訳の本人朗読を聴きながら、原文を目で追う、という体験をすることができた。現代の言葉に置き換えられた「たけくらべ」は、句読点の数や行数は敢えて気にせずに訳したとのこと(松浦さん訳は、句読点数も原文と同じにしてあるらしい)。だから原文では1行で書かれていることが4行になっていたりする。新訳はイベントの直前にギリギリ読み終えた。記憶の遠くにあった「たけくらべ」が呼び起こされた上に、川上未映子さんによる物語にもなっているところに舌を巻く。
 
 
そして目で追う「たけくらべ」原文の美しさ…!私が初めてこの物語に触れたのは高校生の時で、文庫本の後ろにある注釈と原文をしょっちゅう往復しながら古い文章を解きほぐし、なかなか進まなかったけれど、最後まで読んで、切なさに溜息をついた。雨の中、地面に落とされた端切れの紅色や、最後に軒先にさしこまれる水仙の白。時間が経った今では情景だけが頭に残っていたので、もっと叙情的な文章だったと思っていたのだけど、全然違い、余計な比喩もなく、ずいぶん削ぎ落とされたタイトな文章だったのだな。
 
 
一葉について改めて調べてみて、24歳で亡くなる前の「奇跡の14ヶ月」と呼ばれる短い期間に産み落とされた小説群のうちのひとつが「たけくらべ」だけれど、貧しさに苦しみ転居を繰り返しながら、師匠のような人を見つけたり図書館にせっせと通ったりの文章修行を続け、生活面での経験もきっちり物語に落としこみ、それが作家というものなのかもしれないけど、何と無駄のない作家人生なのだろう。改めて触れた原文の印象とあいまって、進化したい欲望とエネルギーに満ちた、肝の据わった女性だったのだなぁ、と思う。身体の中にたくさんたくさん物語の芽があって、それを外に出すのに、今の文体では違う、新しい文体を試したい、そんな貪欲なイメージ。だから、年を重ねた一葉が、どんな文体で物語を生んだのか、読んでみたかったな。
 
 
川上さんは訳しながら、活き活きした前半と、最後のトーンが違いすぎることが気になり、トーンを整えるべきか?を悩み、「うちは、家の中にもう一人、小説家がいまして」ということで、旦那さんの阿部和重さん(「きみは赤ちゃん」で「あべちゃん」と呼ばれてたのに、産後のイライラが募る期では「あべ」呼ばわりされてた阿部さん…)に相談したところ「そのまま、以外、何か他にあるの?それが文体というものなのでは?」と即答されたそうで、トーンを整えることをやめたとのこと。訳してみて「文体とは何か?」ということがわかった。ですます調、センテンスといったことを文体といいがちだけど、それは形式であって、文体はそれらも含んだ全部。全部を通して流れている、そのもの。リズム、音、言葉、有機的なもの、生命そのものが、文体なのであって、「たけくらべ」の文体は、整えようのないもの。という実感に至ったとのこと。
 
 
そして一葉について、24歳で亡くなり、悲劇の人、可哀想、と思われがちだけども、一葉のたくましさ、強さのほうを見ていきたい。一葉に比べて、長く時間を与えられたことで、試されていると思う。と、おっしゃっていた。
 
 
私はこの話を聴きながら、文章はもちろん、映画を観ていて、この映画は途中から別の映画みたいになって安定しないな。だったり、なんで最後あんな終わり方なのだろう。と不満に思ったりすることが度々あるけど、それも監督の文体のようなもの、と捉えれば、観る目ももう一歩先に進めるのではないか、と考えていた。
 
 
久しぶりに触れた「たけくらべ」、初めて読んだ時は、美登利の年齢と、一葉の年齢の中間にいて、むしろ美登利に近いほど幼かった。そして全員の年齢をとっくに追い越した今読むと、もうもう、一葉も美登利も、男の子たちもみんな、みんなをわーっと抱きしめたい。なんなのこの物語。書く側は丁寧に叙情を廃してるのに、読む側に長く逃れられない詩情を残す。そういう表現はまさに好みだし、一葉がどんな過程を経てこの文体に至ったのか、「たけくらべ」以降は変化したのか、もっともっと知りたくなった。
 
 
 
 
情景が目に浮かぶ物語だから、映像化したら…を考えてみてるのだけど、やっぱり美空ひばりはちょっと違うな…。子役時代の高峰秀子も違って、現代では芦田愛菜ちゃんなら上手く演じるだろうけど、それも違う気がする。
 
 
生身の人間では誰で妄想してみても違う気がして、ふと、あ、細田守監督にアニメにしてもらいたい。それなら観たい観たい。という結論に今のところ達した。三次元で該当者がいなくて、二次元に正解を求めたよ…。観てみたいなぁ。

 

 

 

2015-02-27

有楽座

 

 

このあいだ前を通った時は、ぼんやりしてて写真を撮らなかったのだけど、あとで撮りに行った。最後の映画「6才のボクが、大人になるまで。」は観なかった。年末にシャンテで観たばかりだから。ニュートーキョービル閉鎖により、有楽座(TOHOシネマズ有楽座)は今日で閉館。



銀座・日比谷・有楽町エリアは家からメトロ1本であっという間に着き、狭い範囲に映画館がいくつもあって、映画の前後に本屋やデパート、食事もできるので、よほど他の街でしか観られない映画でもない限り、このエリアで観ることにしてる。観客層も落ち着いてて観やすい。



有楽座は他の映画館から流れていく映画も多く、先にそちらで観ていることばかりで、頻繁に行くことはなかったけど、好きな映画館だった。まず、このアメリカにありそうなサインがいい。それから、館内は壁も濃い赤のヴェルヴェットでちょっとゴージャス。東宝の会員制度も使えるし、何といっても映画館のサイズが好きだった。

 

 

 

もちろんどんな映画でも大スクリーンで観たいけど、すべての映画が割り当てられるはずもなく、私が観る映画は小さめスクリーンでかかることが多い。でもミニシアターってミニすぎてちょっと息が詰まる。布団部屋と呼ばれてる(私が呼んでる)シネマート新宿の小さいほうのスクリーンほどのミニ加減ではないにせよ(閉所恐怖症の人は辛いと思う)。贅沢は求めないけど、ミニすぎても辛い、の中間点にある最適解が有楽座だった。あれぐらいのサイズの映画館は他にもあるけど、内装、立地、帰りにエスカレーターで下りるとニュートーキョービルの飲食店がちらちら見えたりする景色も含めて、有楽座が好きだった。



記憶に残ってるのは、「おおかみこどもの雨と雪」を観たこと。逃し続けて、もう間に合わないかな・・と思っていたら、有楽座で観られた幸せ。もちろん映画自体の素晴らしさも。向かいの丸の内ピカデリーに「ジャンゴ」観に行ったら満席でびっくりしたら、その日はディカプリオの挨拶があったらしく、そりゃ無理よね。って気を取り直して有楽座で観た「ゼロ・ダーク・サーティー」も良かったな。

 

 

 

好きな映画館をよく聞かれるけど即答できず、映画館体験って、プログラム、スクリーンの大きさ、客席の埋まり具合、映画館の内装、駅からの距離、誰かと一緒に観たか、飲むコーヒーの味、その日の天気、気分、頭の冴え具合、情緒の安定度合、いろんな要素の偶然の結果だと思う。有楽座は振り返ると良い思い出が多かった、ということ。

 

 

背のあまり高くない私はなるべく前に座るので、最前列とスクリーンとの距離(これは早稲田松竹が最高かな)など、説明しづらいそういう要素が大事。個人差のある話なので、完全に参考にはならないけど、このブログの方、あちこちの映画館で、自分にとってのベストの座席を追究してらして、その姿勢に共感。そうか、こうやって記録しておけば予約するとき便利だね・・。

 

http://blog.livedoor.jp/tokyoeigakanbancho/



2014年、ずいぶんたくさんの映画館とサヨナラして、これ以上なくなったら映画生活にいよいよ差支える。と思ってたけど、2015年も、まだサヨナラがあるんだな。いよいよ差支えるわ。

 

 

2015-02-26

新橋→秋田

 
 
仕事しながら、キーを打つカタカタ音の大きさに体調回復の兆し。食欲も戻ってきた。よかったよかった…。
 
 
今日ようやく知って驚いた。去年夏に閉館した新橋文化劇場を運営されてた方(支配人?)、秋田・大館の古い古い映画館、御成座に今はいらっしゃるとのこと。御成座、閉館していたのが去年復活したらしく、ちらっと知ってはいたのだけど、新橋と秋田が繋がるとは思ってなかった。新橋文化劇場といえば、立地、プログラムに加え、狂気の宿るTwitterが素晴らしかったのだけど、
 
 
あの文体は御成座のBlogでも健在!読めなくて数ヶ月寂しかったよ…。
 
 
 
 
 
とは言え、新橋文化劇場、一貫して「壊館」という表現を使っていたので、 そのうち少女漫画に出てくる男の子風情の照れた表情で「俺、壊館って言っただろ?閉館って言わなかっただろ?あれわざとなんだぜ」って新橋の別の場所に復活してくれるんじゃ…。と淡い期待を抱いてたのは、打ち砕かれた。立地や内装もさることながら、新橋の魅力はプログラムだったのだ。中の人が残っていれば、あの華麗なプログラムセンスを東京でまた発揮してくれるって勝手に信じてた。
 
 
でもま、秋田に行く理由もできたことだし、御成館、楽しみ。この御成館、閉館してからなんと売りに出てたらしい。住居を探していた映画好きの方が偶然見つけて、買うのは無理だけど…と交渉して賃貸にしてもらったのだとか。事務所兼住居としてご家族で住まわれるうちに、映写室がまるごと残ってるのを発見して、映写技師を探して現在に至るとか。そのあたりのいきさつは、ここで読んだ。
 
 
 
 
「はじめはプライベートシアターとして映画館でDVD鑑賞」って…贅沢!そして映画館と住居の住み分けはどうなってるのかしら。 映画祭や特集上映で週に何度も同じ場所に通うとき、あ、ここに布団敷いて寝たい。って思うことあるけど、世の中にはそれを実現してる人がいるのね。東京にずっといて、あと何ヶ月か出られない様相だけど、今年はいろんな街で映画を観たい!

 

2015-02-25

Un homme qui dort

 
 
メゾンエルメス、2月のプログラムは1974年のフランス映画「眠る男」。ベルナール・ケイザンヌ監督と原作者のジョルジュ・ペレックが監督、原作という役割だけではなく2人で一緒に最後のミキシングまで行った共同作品。ジャン・ヴィゴ賞を獲ったとのこと。
 
 
20代半ばぐらいに見える、学生とおぼしき男。学期の最後の試験を終えてしまうと、1人の時間が始まった。生活費は限られてて、ベッドと本と数えるほどの洋服、ネスカフェ、練乳、電気ケトル。それぐらいのモノしかないつましい屋根裏部屋に閉じこもったり、パリを徘徊したりする。淡々と男を追うモノクロの映像とパリ。男の動きを解説する女の声。声が女、ということろがいい。男だけの話じゃなくなって。
 
 
散文詩を読みながら、頭に浮かぶイメージをリピートし続けているような映画だけど、退屈かといえばそうではない。パリにいた後半、学期の最後に試験が終わると、同じような時間が私にも訪れた。同じぐらい何もない部屋で過ごすのに飽きると外を歩き、映画館に入ったりしながら、ただ時間をつぶしていた時期があって、あれが何日、何週間だったのか時間感覚が歪んでいて思い出せない。
 
 
 
この男は私以上に計画性がなく、映画館にもふらっと入るようで、上映が始まった後、スタッフに懐中電灯で照らしてもらいながら座席まで案内してもらってチップを渡す場面が何度かあった。なんでもないカフェでもさもさステックフリット食べるのが好きなところも似ている。有名でもなんでもなく、日本のガイドブックには永遠に載らないような店。パリのおそろし面白いところは、こういう人が実はたくさんいるのではないか。人口のある程度のパーセンテージを占めるほどに。と思わせる何かで、主人公がある日出会って向かいに座る老いた男のように、このまま同じ日を繰り返すうちに時間が経ってあっという間に自分もあの年齢になるんじゃないか。と鏡を見る気分に襲われること。だったかもしれない。街の景観の変わらなさがそう思わせるのか。
 
 
これを観た日の自分の気分が、主人公の気分に似ていて、エネルギーの低い時に敢えて何もしないことが許される主人公が羨ましくもあった。
 
 
ロメール「獅子座」的パリうろつき系、ベルトルッチ「ドリーマーズ」的部屋閉じこもり系で、最後どう終わるのだろう?と眺めていたら、きっとこの言葉で終わるのだろう。と確信した言葉でナレーションが停まった。同じフレーズが何度も繰り返されていたけど、最後だけ、小さな変化があった。変わらぬパリの景色が、気分ひとつでグロテスクに自分に襲いかかってくるように見える途中の転換もいい。

 

2015-02-24

Pauline a la plage

 
 
朝、体温は微熱程度に下がり、大事をとってもう1日病欠。念のため近所の病院へ。風邪と軽いウィルス性胃腸炎の混じったもののようで、どちらにせよ峠は越えたらしい。向かいの薬局で薬を処方してもらいつつ、薬剤師さんも、あら、どうしちゃったの?という感じで下町らしく和んだ。
 
 
おもに外にいる生活なので、家に長い時間いることになると途端に手持ち無沙汰に…。本なども読んだそばから返却しちゃうからストックがあまりない。あ、そういえば!と図書館から借りてたDVDを思い出す。エリック・ロメール「海辺のポーリーヌ」!なぜ借りたかというと、2月は寒いから、ヴァカンス映画を観て暖をとろうと思ったから。
 
 
 
映画館で観て以来、2度目。1983年の映画で、ロメールの「喜劇と格言劇」シリーズの1本。冒頭で引用される格言は「Qui trop parole,il se mesfait (言葉多き者は災いの元)」。もうその通りの物語すぎて書いてるだけで思い出し笑い。ロメール、この一文から95分の映画を創れるのか…。
 
 
海辺の村にヴァカンスにやってきた、モデルのように美しいマリオンと、14歳?ぐらいのいとこポーリーヌ。海辺で偶然再会したマリオンの古い男友達、その友人の男、偶然出会ったポーリーヌと同年代の少年にキャンディ売りの女が絡み…。小さな人間関係であちこちに矢印が向くさりげない物語で、ロメールの手つきで、あらかじめそこに物語が生まれることが月の満ち欠けや潮の満ち引きに似た自然の摂理のように展開していく。あの美しい海辺で、ただ本を読み、食べて飲み、泳ぎ、語り合い、ぐっすり眠り、常に水着か軽く羽織った程度の薄着で、男女がいれば、そりゃ恋は生まれるでしょう。ロメールのヴァカンスものを観てるといつも思うけれど。
 
 
大人の都合で子供扱いされたり大人扱いされたりしてきたポーリーヌが、後半、1人で3人の男を采配し、少女の前で男たちがみるみる子供に見えていく過程、軽妙なやりとりながら、男と女の間にはやっぱりそもそも深い河が横たわっているのね…としみじみするのだけど、最後、女2人で協定を結ぶ場面、ロメールの通貫したお気に入りテーマである「パスカルの賭け」的なニュアンスも垣間見えて見事。男にも女にもそれぞれの言い分があり、誰もが主観で生きていて、俯瞰で見るとたいへん可愛らしく、どちらかを断罪するわけではない。ロメールの映画は1日に何本続けて観ても疲れなくて、だから体調悪めの今日でもすっと観られるのだけど、その理由はこういう姿勢にあるのかな、と思う。
 
 
海辺のポーリーヌ撮影中、女優に囲まれてモテモテのロメール。
そりゃモテるわ…。私も抱きつきたいもん…。

2015-02-23

The Oscars 2015

 
 
朝になっても熱は下がらず、病欠の連絡。夜現在でも下がってないので、明日も続くようなら病院へ行こう。身体がだるいのはつらいけど、映画の神様のお見舞いか、今日はアカデミー賞!寝たり起きたりを繰り返す中、速報で結果をチェック。
 
 
映画の発明だと思った「6才のボクが、大人になるまで」が助演女優賞しか採らなかったのは残念。でも逆に「バードマン」への期待が高まるというもの。エマ・ストーンも出てるし!スノーデンを追ったドキュメンタリーも観たいけど、公開されるかな。
 
 
そして去年の夏に観たポーランド映画「イーダ」、外国語映画賞を獲ってうれしい。1年に1本、出会うか出会わないかの、物語、撮影、衣装、音楽、編集…映画をつくる要素のすべてがピタッと調和する、もう「センスがいい」としか言えない映画。一昨年が「熱波」なら、去年は「イーダ」だった。
 
 
ポーランド人によるユダヤ人虐殺、自らのルーツを探す若き修道女。重い歴史と少女の変化を、数えるほどの少ないセリフで80分で描き切る。確信的な何かはいつもフレームの外にあった。少女の高揚にコルトレーンが馴染む。何が写されているかより、何を写さなかったかという映画。
 
 
観終わって時間が経った今、登場する2人の女性は、真逆のように見えて、実は似ていたのだな、と思っている。

 

2015-02-22

たけくらべ

 
池澤夏樹編集の日本文学全集、刊行が始まり、第3刊の明治文学の一冊をまず手に入れた。川上未映子訳の「たけくらべ」がお目当てだけど、他の2篇も再読したかったのでタイムリー。まず今日は「たけくらべ」を読了。初めて読んだのは確か原文で、高校時代だったと思う。
 
読了し、東大本郷キャンパスでのこのイベントへ。豪華。
 
 
 
川上未映子さんはこの物語を、俯瞰で撮りながら、登場人物ひとりひとりにピントが合っている。と、おっしゃっていた。それを受けて池澤夏樹さんが、たけくらべの成功した映像化作品があるかどうか知らないけど、確かに映画的。冒頭は、俯瞰で写し、大門を写し、そこから横移動するカメラが想像できるとおっしゃっていた。私は小説を読みながら、脳内で映画仕立てにして人物を動かしたり、街を俯瞰で撮ったりしながら読み進める癖があって、「たけくらべ」は映像化しやすい小説だなぁ、と、短篇映画を頭で上映しながらあっという間に読み終えた。
 
きっと映像化されてるけど、たしかに知らないな…と調べてみたら、何度か映画やテレビで映像化されていて、おそらく有名なのは55年、五所平之助監督によるものかな。吉原一の花魁に岸恵子は観てみたいけど、その妹で物語の中心にいる美登利が美空ひばりなのは、かなりイメージが違う。じゃぁ14歳に見える女優で誰がふさわしいのか、すぐには思いつかないけど…
 
イベントは充実の内容で、記録しておきたいのだけど、教室が寒かったせいか人が多かったせいか、帰り道だるくなり、帰宅して検温したら39℃ちょっと手前。この冬、2度目の発熱だな…と思いつつ、早々に眠る。明日はアカデミー賞!

2015-02-21

The magic of Marlene

 
 
図書館から2週間借り、だいたい延長してさらに2週間、1ヶ月楽しんで返却する文京区レコード生活。次に何を借りるか…は、その時の自分のブームと、頭に浮かんだ人を適当に。バカラックの名前が浮かんだので検索してみたら、たくさんヒットした中にディートリッヒの名前があったので、迷わずそれにした。
 
 
今日は部屋のテーブルに向かう時間が長いので、レコードをかけることにして、借りたままになっていたこの1枚をかけてみたら、ステージで挨拶するディートリッヒの声から始まり、解説を読んだり、なんだかんだと調べたりで、すべきことが進まない…。バカラックとディートリッヒの関係を初めて知った。バカラックが有名になる前、ディートリッヒは彼を指名して、バカラック・オーケストラが伴奏としてディートリッヒと世界をまわっていた。年の差もある2人の関係は…というあたりまで調べ始め、今日のところはそこでやめておく。近年出版されたバカラックの自伝にも詳しくあるらしく、ディートリッヒも自伝でバカラックに触れているらしいので、落ち着いたら読もう。私は「情婦」をスクリーンで観て以来、ディートリッヒのファン。ディートリッヒもまた、スクリーンで輝く人だからDVDでは出会えない。ルビッチと組んだ「天使」もスクリーンで観ることができて夢見心地だった…。
 
 
 
 
「リリー・マルレーン」に、「嘆きの天使」から有名な2曲。ドイツ語と英語で歌われていることも含め、波瀾万丈な生涯がそのまま歌に乗り、そこにいるかのように私の背後で歌われている。バカラックの伴奏も、ディートリッヒの歌を殺さず、同時にいかにもバカラックの音で、2人は良いパートナーだったのだな。と感じ入ってしまうと、また思考があちこちに飛んでしまう。
 
 
こんなの聴いてちゃ何もできん!きーっ!と見えないところに置いて、今はスタン・ゲッツ&ビル・エヴァンスが流れてる。

 

2015-02-20

Zoo

 
 
 
シネマヴェーラで。フレデリック・ワイズマン「動物園」(Zoo / Frederick Wiseman / 1993)は、マイアミの動物園で撮影されたドキュメンタリー。
 
 
初めてアメリカに行ったのは確か91年?で、マイアミ。動物園に行ったような気がしたけど、記憶違いで確か水族館だったか。そこのレストランだったかどうかは忘れたけど、イルカを食べた記憶がある。ぱさぱさしていて、アメリカのボリュームで、完食できなかった。時代のせいか場所のせいか、この映画に映るアメリカは、私が初めて見たアメリカに近かった。
 
 
 
映画が始まってしばらくは、動物園に集う人々、フィルムカメラを構えて動物を撮る人々、象の曲芸、曲芸をさせる飼育員。そのあたりまではテレビでも放映されそうな動物園映像で、カバの出産シーンに差し掛かったあたりから、ワイズマン映画の色が濃くなる。高齢出産の初産で、母体にいた時間が通常より長かったらしく、死産だった。飼育員や獣医たちが集まり、蘇生を試みるも、生まれてから息はしなかったみたい。開かない目で「母親のほうを見ているわ」など、しんみりした空気が流れれたかと思った次の瞬間、ショットは切り替わり、女性の獣医が周囲の施設に電話をかけ、これから解剖するけど、臓器欲しい?と連絡している。そして焼却炉の前で解剖が始まり、慣れた手つきでメスを入れ、体を開き、ちゃっちゃと切り分けていく。皮も貴重なもの、生まれたばかりだもの。などと言いながら。べろんと赤黒い臓器を取り出し、用は済んだとばかりに焼却炉に放り込む。
 
 
 
獣医は日々、大忙しのようで、オオカミの去勢手術の場面もある。オオカミを取り押さえ麻酔を打ち、手術台に乗せて取り囲むのは全員女性。腹を切り生殖器を取り出すと「チョン切るわよ」「誰か欲しい人?」と、井戸端会議のように和気藹藹と手術は進む。
 
 
 
 
 
 
餌をやる場面。オオトカゲには魚とふわふわのヒヨコを。女性飼育員が、ふわふわの兎を手に持ち、鉄の棒でカーンと頭の後ろを何度も叩くと、ぴくぴく動きながら兎は死んでいった。それを「さあ、お食べ」と言いながら、ニシキヘビの口元に置く。ヘビと兎のサイズ感を観ながら、どうやって食べるのだろうと見ていたら、ゆっくりした動きで呑み込み、ヘビの胴体には兎の体積のふくらみができた。「星の王子さま」にあった絵みたい。
 
 
小さな動物たちに与えるのか、果物、卵などを大鍋に混ぜ合わせていく。そこまでの味の想像はかろうじてできたけど、肉片をほぐしながら投入したあたりから想像がつかなくなった。一度に食べるか、何皿に分けて食べるかだけで、人間も一食で同じものを食べているはずだけど。
 
 
目に映る人間の動きはすべて、動物園の活動のためであって、つまり、動物を活き活きと、生態に近い状態で人間に見せる。という目的のために人間たちが働いている。
 
 
寄付金を募るのか、動物園にドレスアップした地元の人々を招いての食事会で映画は終わる。大鍋で炊かれるパエリアは、さっきの混ぜた餌に見え、焼かれる肉の塊は死んで生まれたカバの子供の、最後に取り出された臓器に見えた。
 
 
観終わった翌日、映画の記憶が網膜に残り、今日は肉は食べられないかも、と思いながら冷蔵庫にあった肉を取り出した。食べられないかも、と思いながら焼いた。焼いているうちに、これは動物の肉である。という考えを、これは食べ物である。という考えにすり替え、皿に乗せる頃には美味しそう。と思い、美味しい。と思いながら食べ終えた。
 
 
どこかの動物園に時々ある、檻だけを置いて「人間/ヒト科」といった看板をつけ、鏡を前に置くような仕掛け。あれは飼育員たちの良心の呵責のあらわれなのだろうか。小さな動物を殺してより大きな動物に与える側の自分も動物であり、動物の生殖器を切り取る側の動物である、ということを、ワイズマンのドキュメンタリーのように日々続けていると、良心の呵責に苛まれるのかな。と思いながら、当分、肉は食べられないな。という舌の根も乾かぬうちに、牛の一部を摂取した自分こそ、業が深いのでは。と思われた。

2015-02-19

Cours du soir

 
 

土曜から、早稲田松竹でジャック・タチ!長篇2本&短篇3本のプログラム、豪華だな。全部、去年観たのでパスするけど、これきっと観終わる頃には、耳までTATI液ひたひた。

 


 
 
去年のジャック・タチ映画祭、せっせとイメージフォーラムに通い、都合がつかなかったのは流れた先の下高井戸シネマまで追いかけた。8月、夏の休暇前日に観た「ぼくの伯父さんの休暇」、まさにタイムリーで、いつもはヴァカンス映画でヴァカンス気分に浸った後、そうはいってもトーキョーにいる私、明日はお仕事です。って一気に現実に引き戻されるけど、この日ばかりは、あなたのヴァカンス楽しそうね?でも私も明日からヴァカンスですが?って高揚感開放感。
 
 
そして併映の「ぼくの伯父さんの授業」が、とんでもなく面白かった。
 
 
タイトルロールの背景は近代的なビル、なにやら授業が行われているらしい。入ってきた先生はジャック・タチ。神妙な顔つきで教えるのは・・・階段ボケについて。こう、ステップを上がりながら、つまづいてコケる。という一連の動作をいかにスムーズかつ効果的にキメるか。完璧な階段ボケの実現にあたっては、どの足から始め、何段目でどういう動作をして・・と秘訣は山ほどあって、気をつけないと、そもそもコケられない。もしくはコケすぎて惨事を招く。という良からぬ結果に至るのである。と、説く。
 
 
 
 
 
次に、柱ボケ。ぼんやり歩いていたら、柱にぶつかったよ。という一連の動作をいかに、わざとらしさを排除し効果的にキメるか。柱まで距離がある時は助走段階から準備し、かつ「そこに柱があるなんて、知らなかったよまったく」の表情を保たねばならない。あらかじめぶつかることを前提に歩くなんてもってのほか。タチ先生が手本を示し、生徒たちが次々に練習。
 
 
 
 
 
 
 
生徒たちはみんな、ジャケットを着た紳士たち。原題「Cours du soir」、そう、これは夜の学校なのだ。仕事を終えた後、学習意欲の高い紳士たちが夜な夜な集まる場所。何のために・・?という疑問は野暮というもの。
 
 
 
 
 
 
関西人の幼少の記憶として、クラスでおちゃらけた男子に先生がが言う「お前なんか行ける学校あらへん。吉本行け」という常套句はDNAに刷り込まれてるレベルで、はたして吉本ではどんな教育が?と想像してみたときに、案外、タチ先生の夜の授業みたいなのかしらね。そう考えると、チャーリー浜先生や、坂田利夫先生によるこんな授業が、夜な夜な大阪で開かれているのかも。
 
 
ジャック・タチ映画祭、すべてのプログラムを観たけれど、長篇では「パラ―ド」、短篇ではこの「ぼくの伯父さんの授業」が記憶に残ってる。芸人としてのタチを観られたことが幸せだった。関西人の血が騒いだ。

 

 

2015-02-18

Grindhouse study

 
 
グラインドハウス気分を思い出す必要に駆られ、いま読んでる本。まだ100分の1も読んでないけど最高!そしてこの表紙、目立ちすぎて電車で読めない。カバーかけるのも野暮な気がして。
 
 
グラインドハウスについて、私は今まで何も知らなかったのだな。目から鱗の連続。グラインドハウスとは、60年代後半から80年代にかけてアメリカの都市部の場末に存在した、B級C級映画を2〜3本立てで延々と上映する映画館のこと。
 
 
・いちばん有名なのは70年代、NYの42丁目。スコセッシ「タクシードライバー」でデ・ニーロがポルノを観るあの映画館。
 
 
・グラインドハウスといえば、まずポルノ。グラインドとは、女性が腰を振る、ストリップの動き。(ここで膝を10回打った私。そうか!)
 
 
・60年代初め、有名なストリッパーを呼べない地方の小さな劇場が、ストリップ・ショーを記録しただけの映画をかけていた…のがグラインドハウスの前提。
 
 
・同じ頃、アメリカはドライブインシアター全盛期で、B級ホラーや怪獣映画はドライブインシアターでっかっていた。しかし、ドライブインシアターでポルノはかけられない。そこでグラインドハウスの出番。そもそも大都市にはドライブインシアターはない。
 
 
・NYの42丁目に代表される古い映画館は、大都市のダウンタウンにはだいたいあり、それらは20年代から40年代にハリウッドの映画会社が建てた直営映画館。40年代終わりに独占禁止法で映画会社から劇場経営が切り離され、さらに都市部から白人中産階級が郊外の住宅地に一斉に引っ越し、都市の中心部がスラム化した。ダウンタウンの映画館も寂れて廃墟化、そこにインディペンデント系の安いフィルムだけを流すグラインドハウスが生まれた。当時のインディペンデントとはアート映画ではなくB級映画で、ハリウッドメジャー映画は郊外のシネコンでかかっていた。
 
 
おお・・・見開き2ページ読むだけでなんと学べる本なのだろう・・。私のニッチな興味がこんなに満たされることは稀なこと。
 
 
そしてタランティーノのインタビューも掲載されており、2本立て&間に架空の映画の予告篇のセットで1本の映画として仕立てられた「グラインドハウスUSAバージョン」こそ本来、上映したいスタイルだったけど、アメリカ以外の国ではそもそも2本立て文化のある国が少なく、日本でもUSAバージョンは1週間ほどの期間限定公開で、それ以降は1本ずつのバラ売り上映になった。しかしこの映画、USAバージョンで観ないと魅力半減なのだ。それについて、日本には2本立て3本立て文化があって、タランティーノの好きな深作欣二だって初公開時は2本立てで女番長映画と抱き合わせだったんだぞ!日本の映画観客をフランス人なんかと一緒にしないでほしい!とインタビュアーが抗議すると、
 
 
「それは日本でみんなに言われたね。フランス人と一緒にしてしまってごめんな」
 
 
って謝るタランティーノ最高!これを読んでようやく思い出したけど、確かにフランスで2本立て観たことなかった。その文化がないのだろうか。映画発祥の国として、映画は1本ずつ観てこそ映画だ。みたいな背景なのかしら。
 
 
 
 
内容にいちいち反応してしまい、 読み進まないけど堪能してる。合間にはさまれるゾンビ映画の写真、寝る前に読むと夢に出そう。

2015-02-17

2015年のホリー・ゴライトリー




家の片づけを、何を処分するかというより、いったん全部要らないと仮置きしてみて、何を残すか目線で遂行しており、部屋がものすごい様相に。本棚ももちろん聖域ではない中、「ティファニーで朝食を」原作、映画関連本は3冊あって、どれも「残す」と判断したので、あの物語と映画が好きなのだな。


東京のブランド beautiful people、シーズンごとに設定されるテーマに映画がらみのことが時々あり、毎シーズン写真でチェックするのだけど、2015 pre springは「ティファニーが朝食を」がテーマらしい。






いちいち猫が写ってる写真がいい! 猫という名前の猫。cat!!










この場面のナイトドレスにインスパイアされたシャツワンピースや、






スウェットにデニムもある。
ジバンシーのドレスよりも、窓際でムーンリヴァー弾き語る時の
このスウェット&デニムが案外好き。リラックス中。





万引きした動物のお面は、Tシャツやトートバッグに・・。




beautiful people、過去には寅さんテーマのコレクションや、





サンローランにオマージュを捧げたシーズンには、シェルブールの雨傘のドヌーヴ風のルックもあった。





伊勢丹などで現物があるとチェックするのだけど、なぜか購入に至らず。あくまで写真だけで洋服と物語のファンタジーを感じるにとどめるのが好きなのかも・・。そして今週は他のことに頭の容量をとられてるので、日記にたいしたこと書けない週。ワイズマンの感想、書きたいけど片手間じゃ無理。

2015-02-16

Adieu au langage


 
 
 
シネスイッチ銀座で。頻繁に行かない映画館だから普段はどうか知らないけど、私が知る史上最も混雑していた。ゴダールの新作も、「おみおくりの作法」という映画も満席続き。東京の映画館はどんどん閉館していくのに、私が行く映画館は混んでいることが多くて、映画館の未来は実は明るいのでは?と錯覚する。
 
 
「ゴダール」の「新作」を、「3Dメガネ」かけて満席の客席で観ることの、もぞもぞした違和感、笑っちゃう。こんな日が来るなんて・・。そして3D。これまで印象に残った3Dを思い出してみると・・
 
 
「華麗なるギャツビー」
3Dである必要がどこに?と思った映画大賞。禍々しいパーティーをよほど立体的に見せたかったのだろうか・・
 
 
「ゼロ・グラヴィティ」 
3Dで観ないと意味がない大賞。この映画の魅力の80%は、3Dかつ映画館の音響で観ることにあると思う。映画好きの間では、宇宙空間を漂う体感を上げたくて、どの映画館で観るのが一番いいか、という話になり、ともあれIMAXが最高!という結論に達していた。タブレットとかで観て物語が貧弱だとか言うのは映画に失礼というもの。
 
 
観てないのだけど「STAND BY ME ドラえもん」
美容室で髪を切ってもらいながら、ドラえもんで3Dってどうなのかしら。という話をしたら、美容師さんが観てきたらしくちょっとマリコさん、ドラえもん3Dなめてるんですか?言っておきますけど、めっちゃ丸いです。と言われたので、めっちゃ丸いのか・・・観たい・・と今でも思ってる。

 

 

 
 
 
 
ゴダール新作「さらば、愛の言葉よ」(Adieu au langage / Jean Luc Godard /2014)、冒頭、ADIEUの赤が明滅して飛び出してきていきなり興奮。これまで大がかりで非現実的なアクションの観客に、アトラクション的な体感をもたらすために使われることが多かった3D、ゴダールだったらこう使うのではというシミュレーションをいくつかしていき、予想は大きく裏切られなかった。右目だけで/左目だけで観た時、違う映像が映るあの仕掛け、片目ずつばちばち閉じたり、両目で重なりを観たり、そんなこと映画館でしたのは初めて。そうか、3Dって確かにそういう仕組みだった。
 
 
 
 
 
物語は人妻と独身の男の不倫、そして犬(ゴダールの飼い犬!)が一応中心にあり、膨大なイメージと音響が物語に伴走したりしなかったりで差し込まれる。過去の映画を観ていて思うのは、女の身体の扱い方が雑だな、ということばかりで、女が男に適当な手つきで身体をつかまれるシーンは「女と男のいる舗道」ラストのアンナ・カリーナみたいだったし、バスルームの場面は「軽蔑」を思い出したりもして、芯の部分はまるで変わっていないように思えた。愛だの何だのの語り口が、カメラのあちら側から被写体を捉えてぶつぶつ、愛とは・・・など、非接触状態で一人ごちてる遥かな距離感、老境に達しても変わらないのだな。人間がみんな窓際に放置され半分枯れた植物のように見えて、犬だけが活き活きとした生をもった存在として画面を動き回っていた。そしてベートーヴェン交響曲第7番は映画館でよく聴くクラシックナンバーワン。ホン・サンスの映画でネタのようによく出てくるから、流れてきた瞬間、笑ってしまった。映像との相性がいい交響曲なのかな・・。
 
 
 
 
 
 
物語より、3Dということに意味があるのだろう。新しいオモチャをいじる男の子の荒々しい手つき。69分という時間は、面白いけど「体験」だけにこれ以上は辛い。という限界点だったけど、ゴダール本人の老いもあるのかな・・・と邪推。オリヴェイラ(106歳)も徐々に映画が短くなってきているものね。80代も半ばにさしかかったゴダールが、どこまでも自分の手法で自分の映画を更新したことに、純粋に感動した。トリュフォーなんてとっくに亡くなって、あの人は素敵な人でしたね・・・って懐かしむことしかできない。生き続けて撮り続けることのしぶとい重み。次回作も、今から楽しみにしてる。

2015-02-15

P'tit Quinquin

 
 
アンスティテュ・フランセで。ブリュノ・デュモン監督「プティ・カンカン」(P'tit Quinquin / Bruno Dumont)を観る。カイエ・デュ・シネマが選ぶ2014年ベスト10で、1位だった映画。
 
 
 
ベスト10の記事はこちら。
 
 
「プティ・カンカン」はフランスのテレビ局Arteから監督に依頼されて作られた50分4本のTVシリーズで、4本を繋いだ200分、シネマスコープ版が上映された。ブロネ地方の海沿いの村で、牛の腹から切断された人間の身体の一部が見つかる。プティ・カンカンは村に住む少年の名前。少年にはイヴという美人なガールフレンドがいて、悪ガキ仲間たちと海で遊んだり、デートしたりしてヴァカンスを過ごしている。憲兵隊2人組が事件の解決に迫り、プティ・カンカンたちも事件を追うが、遺体は日を追うごとに増えていく。
 
 
誰も知った俳優がいないし、200分も集中して観られるかしら…と心配していたけど、あっという間だった。知らない俳優ばかりなのは当然で、俳優はみんな素人、監督が1年かけて撮影場所の村の人々をオーディションして選んだのだとか。憲兵隊の2人、特に眉毛の長い隊長、どこかで観たことあるな…誰だっけ…あの映画だったかしら…と思い巡らしていたけど、プロの俳優にしか見えない隊長も素人。憲兵隊の2人は現実生活では2人とも無職、ときどき造園を手伝ったりしてちょっと稼いでる人たち(だったかな)。暗い物語のはずなのに、ところどころ笑える場面があって、笑いながら物語を追ってるうちに終わるのだけど、観終わって時間が経つと笑ったことはすっかり忘れ、ただ不気味さだけが残る。
 
 
奇妙な殺人事件の舞台になった村、フランドル絵画に登場しそうな素朴で静かな海辺の村だな、と思って見ていると、後半、浜辺に張り付けられた裸の女の死体を見ながら、憲兵隊長がフランドル絵画の裸婦のようだ…あの画家…ルーベンスの。というセリフがあったから、私の視覚は監督の狙いどおりだったのか。しかし決定的に絵画とは違うのは、草むらに残る戦争遺構であるトーチカで、近づいてはダメと言われながらもプティ・カンカンたちはトーチカを遊び場にし、手榴弾を見つけて遊び、また牛の死体もトーチカで発見されヘリコプターで吊り上げられる。トーチカがある以上、これは現代の物語なのだ。
 
 
シャルル・エブド事件を預言した!という感想も何かで読んだのだけど、確かに子供同士のたわいのない会話の中で差別を受けた黒人の少年が、自分はイスラムの神と同じ名前である!と叫びながら家に立て篭り周囲に発砲する場面はあった。けれど預言…というより、フランスに内在する問題が、現実で表面化したのがあの事件で、フィクションとして物語の一部とされたのがこの映画、というだけのこと。次々に人が死ぬ中で、彼の死だけが猟奇的に殺されたものではない。
 
 
そこから出ていくことに心理的重みもありそうなこの小さな村に、宗教、差別、精神障害者…の存在があって、大人たちは狭い範囲で不倫にふけり、子供たちは無邪気に遊び恋もする。事件が絡むことでそういった現実が白日のもとに晒されていく。少女の美人なお姉ちゃんの歌う歌、上手なのだけど、歌がなんだか絶妙にダサくて、持ち曲もその1曲しかないせいか、村の人たちもあちこちで何度も同じ歌を聴くはめになり、悪ガキたちが歌い方を揶揄して真似するさりげないそぶりも、笑えるようでいて狭い共同体でのさりげない憎悪が見えるようで、ゾッとする。悲惨な殺され方をした人の教会での葬儀で、神職者たちが素人くさく笑いをこらえながら儀式を進行しているのにもゾッとするし、故人の思い出の曲というわけでもなさそうなのに、ただ人前で歌えるレベルに上手いという理由で、葬儀の場でお姉ちゃんが出てきて、絶妙にダサい歌を披露するのも、村人たちが神妙な顔つきで聴いているのも、悪趣味で不穏でゾッとする。憲兵隊長がつぶやく「ここは地上の地獄だな…」って最近、ニュースみながらよく思うからフィクションをフィクションとは思えなくなっている。
 
 
プティ・カンカンと少女の恋は、大人びているような子供らしいような曖昧な線をふらふらし、事件と絡んで最後はロミオとジュリエットのような悲劇の様相を帯びてくる。ロミオとジュリエットみたい…と思っていたら、後で監督の口からもロミオとジュリエット。という言葉が出てきたので、私の視点は監督の思惑どおり…。最後、誰が犯人か特定されたようなショットで物語は終わったけれど、あくまで頼りなさそうな憲兵隊長の推理に過ぎず、次の日には容疑者が殺され、真犯人は別にいる。という物語の続きがあったとしても驚きはしない。誰もが犯人になりうる怪しさをはらみつつ、疑わしきは誰もが犯人のように見えてしまう自分の目かもしれない、という物語のように私には思えた。
 
 
 
 
複雑な味わいの「プティ・カンカン」、ブリュノ・デュモン監督はこんな方(右側)。左は聞き役のカイエ・デュ・シネマ編集委員の方。質疑応答の受け答えを聞いていても、深い思索と職人気質の人というイメージ。映画監督になる前は、企業などの映像を注文して作る仕事をしていた時期が10年ほどあるとのこと。その前は哲学教師だったそうで…今この映画の背景には、監督のそういった経歴がある。というのが納得できる方だった。客席から「ツイン・ピークスを思い出したのですが…」という質問が投げかけられると、「見ていないので答えることができない」と二言で回答が終わったり…。
 
 
素晴らしい通訳つきで監督の話を聞くことができたのだけど、含蓄深すぎて断片的に覚えていることを自分の解釈で文章におこすことに抵抗がある。まとめてどこかで読めるといいのだけど。耳に残ったことをメモしておくと(記憶が間違ってる可能性もあり)、「映画は虚構だから、ドキュメンタリーは信用しない」「素人を起用したとしても、その人の本来の職業を演じているわけではない。無職で造園を手伝ってる人が、映画では刑事を演じる。そのズレこそが映画」など。監督の映画で一貫して描かれている宗教、信じることについての問いに関しては、監督自身、クリスチャンだった過去があり、しかし現在は無宗教者であることに触れながら回答されていた(ここの部分を思い出したいのだけど、思い出せない。しかしとても納得しながら聞いた。映画を観ることと教会で祈ることは似た行為で、映画の中でだけ人々の前に神を存在させることができる…フィクションとして…のような内容だったかな…違うかも…)。
 
 
もっとも耳に残ったことは最近、暴力的な事件にフランスも日本も遭遇している。ということに対し「人間にとって暴力は必要。人間は暴力的な存在だから。けれども暴力の表現は文化の役割でああって、人間の首を斬るようなことは現実であってはならない。それは映画でなければならないんだ」という発言。
 
 
集客できるような俳優が出ていないせいか配給されるかどうかもわからないけれど、今これを観ずして他に何を?素人を使って現代のフランスを描き、200分も飽きさせず余韻を残す、こんな映画こそ今、目撃すべき奇跡と思う。気の滅入るニュース映像ばかり観て、心がぐったりした後に観たせいか、上映とティーチインを経て「プティ・カンカン」、最近観たたくさんの映画の中でもっとも心に残っている。

2015-02-14

Attila Marcel

 
 
ギンレイホールで。他の映画の整理券を早い時間にとりにいった後、ちょうどよく時間が合ったので「ぼくを探しに」を観た…ことをもう、忘れていたよ…。1週間前のことなのに。その後に観た映画が記憶を上書きしてしまった。フランス映画。「アメリ」のプロデューサー、「ベルヴィル・ランデヴー」のシルヴァン・ショメが実写で監督。この名前だけでもう、ちょっと不思議だけどロマンティックで、洋服やインテリアも凝ってて、癖があるけど愛すべき人々が出てくる映画なのだろうな。と想像できて、そしてそのとおりの映画だった。それが故の安心感というのを求める人には良い映画なのだろうけど、想像を超えるところが何もないのはいかがなものよ…と思ってるうちにエンドロール。小さい時の出来事が理由で言葉を発せられなくなったピアニストの男が、同じ建物に住むマダム・プルーストのつくるマドレーヌとお茶を飲むと一瞬だけ過去にトリップできて(プルースト!)、繰り返すうちに自分の過去を知る。という物語。マダム・プルーストの部屋、部屋内菜園、部屋の中に土を持ち込み栽培してる自由すぎる感じで、温室みたい。
 
 
物語の本筋とはそれたところで、観る価値があったと思ったのは、亡くなったベルナデッド・ラフォンが出ていること。フランス版のWikipediaによると、映画においてはこれが遺作だったらしい。そしてフランス版ならではの詳しさでざっとみてみると映画だけでも膨大な出演作。亡くなる寸前まで映画に求められた、フランス映画史を体現する女優さんだったのね。トリュフォーにユスターシュ、ヌーヴェルヴァーグの頃の映画はもちろん、最近のものに至るまでベルナデッド・ラフォンの名前を見つけるとそれだけで観たくなり、観てみると確かに外見は年齢を重ねたものの、独特のセリフまわしは昔から変わらず、あの声と話し方を聴けるだけで嬉しい人だった。
 
 
エレーヌ・ヴァンサンと2人、主人公の伯母さん役で、ダンス教室を切り盛りしている。この2人のファッションが双子みたいにお揃いで、かといって完全に同じではなく、着る人にあわせて変化があって楽しかった。コート、同じ生地だけど、ベルナデッド・ラフォンはシングル、エレーヌ・ヴァンサンはダブルで。
 
 
 
 
ダンス教室ではブラック・ドレスを。1人はカシュクール、1人はシャツワンピースのような合わせで、アクセサリーで変化をつけて。
 
 
 
チェリーの酒漬けをしょっちゅう食べる。伯母さん2人の好物のようで、 砂浜を歩きながら食べるシーンが目に焼きついている。嬉しそうに口いっぱいに頬張るあのショットが、私にとってのラスト・ベルナデッド・ラフォンになった。
 

2015-02-13

Kung-fu films in South Africa





The help、エマ・ストーンの写真を貼りたかったから・・・ではなくて(それもあるけどさ・・・)。



ベルリン映画祭の日記を、眠る前に読むのが今週の楽しみ。Day6で書かれている、南アフリカの映画祭で企画されている香港カンフー映画特集について、興味深く読んだ。





東京で映画祭に通い始めたのが一昨年。映画祭のチケット、前売りで完売するものも多く、仕事の都合で先の見通しをたてられない時期が何年も何年も続いた後、ついに獲得した自由!という喜び。熱心な観客が多いことに加え、いろんな国から来る映画を作った人たちのお話を聴くことができるのがほんとうに贅沢で幸せで、時事に疎い私も世界を覗くきっかけとして、映画を観ることに意識的になった。予期せぬ写真が否応なしに目に飛び込んできたりするインターネットやTVニュースと違い、自分のペースと興味で観るものを選べるのもいい。


黒人専用映画館でかかる香港カンフー映画・・・について想像してみて、南アフリカの話でも、映画館の話でもなかったけど、そのような映画をここ数年で観たな・・と思い出したのが「The help」だった。エマ・ストーン目当てに観に行って、またもや引いた当たり。白人家庭に雇われる黒人メイドたちの物語で、内容もさることながら、60年代を描いたもので、裕福な白人家庭の主婦たちのファッションが、kate spadeに今、こんなワンピースありそう。というクラシカルなアメリカンファッションで、ここ数年観た映画の中では、さりげなくファッションが良かった映画上位に入る。


話を元に戻して。この間書いた、イランでは宗教上の理由(肌の露出禁止)で日本映画の上映が多く、日本映画に影響を受けたイラン監督の映画を今、日本人が面白く観ている。というのも興味深いことだし、日本は何でも観られるようで、震災の時期にちょうど公開されていたイーストウッド「ヒアアフター」が上映中止になったり(大津波のシーンがある)、去年の東京フィルメックスのオープニングが、戦争を描いた「野火」だったことも考えると、やはりその国でいま起こっていることと、その国でいまどんな映画が観られるかはまるで無関係ではないのだな・・・と思ったので、メモしておく。

2015-02-12

Crazy, Stupid, Love



先週、体調都合で映画館に行けず、借りておいたDVD「ナイアガラ」ともう1本、「ラブ・アゲイン」。この邦題のために観るべきこの映画が観られていない気がする。原題は「Crazy,Stupid,Love」!




ロマコメ嫌いな周りの女性、およびあまり映画は観ないけど軽く何か観たいという男性によく薦める映画で、今のところ誰に薦めても良い反応ばかり。東京では短い期間、少ない上映場所であっという間に公開が終わり、私が気付いて観たのは名画座。学生結婚し子供たちを育て、倦怠期に入った夫婦。妻が夫に離婚を切り出す。夫は妻を取り戻そうと奮闘し…。夫にスティーヴ・カレル、妻はジュリアン・ムーア、夫に男とは。の、指導をする軽いモテ男にライアン・ゴズリング、若い弁護士役にエマ・ストーン。俳優の名前を観ただけで、どう転んでもいい映画。


2度目の今回はDVDで観たせいか、筋書きを知ってしまっているせいか、初回ほど心を掴まれることはなかったけど、台詞は何度聞いても面白く、忘れられないシーンはやっぱり山ほどあった。


特にライアン・ゴズリングによるモテ男養成講座。頭のてっぺんから爪先までスタイリングして夫を改造していくシーン。「プラダを着た悪魔」しかり、こういうシーンは華やいで好き。まずは基本の20アイテム(18だったかな?)を揃えるだけで男は変われる。と、クレジットカード切らせまくる。そして夫は確かに改造されるのだけど、いちどきに身につけるのが10アイテム以上で、動きづらい…と言っていた。素朴な疑問として、そんなに一度に身につけて着替えはあるのだろうか…。久しぶりに会った妻に垢抜けたと指摘されて「20年間、間違ったサイズのスーツを着てたんだ」って言う台詞よかったな。サイズは大事!ライアン・ゴズリングは東京で言うなら有楽町阪急メンズ館に出没しそうないでたちで、ジーンズ?GAPでいいじゃん。とめんどくさがる夫の頬はたいて「be better than GAP!」って説教する場面は何度観ても最高。




この映画を無事発掘できたのは、エマ・ストーンによるところが大きく、単に彼女のファンなのだ。私の中にはきっとアメリカのちょっと冴えない10代男子が棲んでいて、彼が私に「クロニクル」やらを観せて熱狂させている気がしてならず、彼が私にエマ・ストーンみたいなガールフレンドがいれば人生バラ色!って叫んでる気がしてならない。リサーチして遡り「スーパーバッド童貞ウォーズ」「ゾンビランド」「小悪魔はなぜモテる?」などなど観るはめになり、そんなタイトルの映画群なのに、おそろしいほど全部全部面白い…!エマ・ストーンが観られればよかっただけなのに、次第にエマ・ストーンの映画選びにぬかりなし。と尊敬の念に変わって現在に至る。私生活でもスパイダーマンとつきあい始めたと知り、は?俺のエマに?どんな男よ?って腕組み斜め視線で3Dメガネかけて観た「アメイジング・スパイダーマン」、世にも可愛いカップルすぎて大満足で帰ってきたりもした…。


「ラブ・アゲイン」のエマ・ストーン、あのハスキーな声で放つ、それPhotoshopなの?の台詞には爆笑。安定の魅力ふりまきっぷり。そして大人のキャスト陣に加え、子役(というほど子供でもないけど)も芸達者な俳優陣にひけをとらないこまっしゃくれた演技でいい。振り返るとファーストシーンからきっちり伏線はられた脚本も丁寧。


こうやって書いてみると2度観るとあんまり…など思いながらも、やっぱりこの映画が好きなのだな。スタージェスに続く、ロマコメ嫌いに薦めるロマコメシリーズ「ラブ・アゲイン/Crazy,Stupid,Love」よろしければ、是非。

2015-02-11

Cinema memo : Victoria

 
 
 
今年に入ってから、意識的にインターネットの世界から離れるようにしている。特にソーシャルであること。への興味は日々消失しており、SNSのアカウントをいくつか削除し、削除しないものも目に入らないようアプリは削除。「電車の中でスマホを見てる人」になりたくなくて、移動中は読書。とりあえず1ヶ月続けてみて、精神衛生上、とても良い。スパッと自分に集中できる。
 
 
その流れなのかどうなのか、年々、更新されるたびに読むBlogやサイトは減っており、今はmemorandomと、東京国際映画祭のプログラムディレクターの方のBlogだけ。ご覧になったたくさんの映画の中から、映画祭で観られる映画はあるのかな…とラインナップの発表まで楽しみにしたり、映画祭で観られなくても日本で公開されるのを楽しみにしたり。ちょっと先の未来に楽しみを置く感じ。
 
 
今は、開催中のベルリン国際映画祭でかかってる映画について、読みながらチェック!
 
 
 
 
そしてday3の日記に書かれていた、ドイツの「Victoria」という映画、気になる…!140分のワンシーンワンカット。「エルミタージュ幻想」のような撮り方の映画。賞に絡むのは確実、と書かれていたので、賞を獲っていただいて、是非日本でも観られますように…!
 
 

https://www.berlinale.de/en/programm/berlinale_programm/datenblatt.php?film_id=201505757#tab=filmStills

2015-02-10

Niagara




シネマヴェーラの映画史上の名作特集で、マリリン・モンロー主演「ナイアガラ」を観ること、楽しみにしていたのに体調を崩した。最後にスクリーンでマリリンを観たのはいつのことだったっけ・・・。生命エネルギー、夏の盛りが100だとすると、この時期は10~20をウロウロしてる感じ。寒いの苦手じゃないけど、年も明け、立春も過ぎ、何度も心の切り替えをしているのに、気温がいっこうに上がらないところが、中途半端で気持ち悪いのだと思う。気持ち悪いと言われましても。って、気温のほうも思ってるだろうけど。


「ナイアガラ」のあらすじも読んでいたし、次にいつ観られるかわからなかったので、不本意ながらDVDで観てみた。1952年撮影、1953年公開。マリリンのフィルモグラフィーの中では前半の映画か。モンロー・ウォークを披露した映画としても有名で、マリリンの後姿がよく映される。


ナイアガラに旧婚旅行に来た夫婦は滝を一望できる場所にあるロッジに着くと、退室しているはずの前の宿泊客が退室していなかった。前の宿泊客は夫婦で、夫がジョゼフ・コットン、妻がマリリン・モンロー。戦争後遺症で心が安定しない夫の具合が悪いらしい。なんら関係ない夫婦の楽しいはずの休暇はマリリン夫婦のいざこざに巻き込まれていく・・。


マリリン・モンローが人気女優としての地位を確立したのがいつかわからないけど(「紳士は金髪がお好き」あたり?)、フィルモグラフィの後半はマリリンがマリリンであることに重きをおいた役が多く、まださほど有名ではなかったはずの前半のほうが、女優としての素が見えるようで好きなものが多い。脇役で登場する「イヴの総て」も良かったし、「ノックは無用」は、その後の人生を知ってしまっているだけに、どこまで演技か境界線が見えなくてドキドキするのが、映画の内容と合っていた。「ナイアガラ」も「ノックは無用」の系譜にあるような映画で、サスペンスとしての筋書き以上に不安定なマリリンがスリリング。






マリリン初のカラー映画だそうで、今まで白と黒のグラデーションだけで見せていたマリリンの色づきを見せたかったのか、どんな場面で唇が赤い。そんなフルメイクで寝るとシーツとか汚れるでしょ?という現実生活の垢の感じさせなさ加減がいい。映画は虚構。






寝るときもフルメイクなのは古い映画ではよくあることとして、シャワー浴びてもフルメイク。にはさすがに笑った。どれだけ強靭な成分の口紅なの。映画の終盤、夫がマリリンのリップスティックを拾い上げるシーンがあって、ケースがキラキラとデコラティブなものだった。どこのメーカーのものだったのだろう。






衣装はメイクほどカラフルではなかったけど、滝を間近に見に行くときの防水服、男性は黒っぽい色だけど、女性が鮮やかな黄色で、便宜上、すっぽりフードもかぶって、日本の小学生の雨の日の登校風景みたい。この写真、スクリーンテストなのか、こんな恰好でマリリンの表情が虚ろなのがうすら怖い。






宿のパーティーシーンが不穏さをはらんでいて素晴らしい。アウトドアに行くような服装が似合う観光名所のはずで、まわりの宿泊客は着飾ったとしてもコットンのドレスを着る程度なのに、ピンクのドレスでパキパキに着飾って現れるマリリン、異形の存在すぎて周囲から浮く。その場にいる男どもがみんなマリリンに視線をやり、もうひとつの夫婦の、夫が妻に「きみもあんな服を着てみろよ」と言ったのに、妻が「あんな服を着るためには、13歳から準備が必要なの」と答えたの、いいセリフだった。



人が亡くなり、マリリンは物語の途中で退場し、残り3分の1は大自然サバイバルもののような、別の映画のようになっていく。サスペンスとしては物足りないところが多々あるものの、つまらないけどマリリンを観られたから満足。というだけの映画でもない。ロケ地になっているナイアガラの滝の地形の面白さ、滝を観に行った人たちが危険な思いをする場面もあって、あんな有名観光地なのに危険対策の脇が甘いな・・など行ったことのない場所を、映画を通じて旅する。という魅力もあった。


そして最後の場面まで観たとき、あ、この映画、前に観たことあったわ・・・と、ようやく気づいたのであった。よくあることだよ・・。

2015-02-09

MJ&MM





memorandomで紹介されていたマイケル・ジャクソンの私物コレクションカタログについて、とても興味深く読んだ。





ここのところ、人とモノの関係を撮ったドキュメンタリーばかり観ていたので、タイムリー。ワイズマン「ストア」だって、モノへの欲望を喚起させるための装置が舞台。モノに対する価値観は人それぞれで、持たない派の自分はそうならないとは思うけど、持つ人・買う人にも、自分とはベクトルが真逆で、とても興味がある。


実現しなかった映画の構想を振り返る映画「ホドロフスキーのDUNE」がロマンに溢れていたように、実現しなかったオークションのカタログというのも、それ自体、カタログ自体がロマンティックだな、と思う。イヴ・サンローランのドキュメンタリーは最後、パートナーのピエール・ベルジェが2人で集めたものを全部オークションで売却するシーンで終わった。サンローランの死後、サンローランへの恋文集のような本をベルジェは書き、日本語訳を読んだのだけど、モノは売り払うけど恋文は綴るところに、ベルジェの知性を感じた。これぞスノッブの極み!という文章だった。残ったモノをどうするかも人それぞれ。


と、つらつら思い出しながら、マイケル・ジャクソンについて私が書けることは何ひとつないけど、「THIS IS IT」公開時、新宿ピカデリーに観に行ったことを思い出した。本当に何でも観るんだね・・・と、映画選びの節操なさに周りに呆れられながらも「THIS IS IT」はとても面白いドキュメンタリーだった。


あまりに何も知らないから、ほほー。こんなダンスの上手い人がいたのか。そして亡くなったのだな。と、頭の涼しい子のような感想を持つと同時に、マイケル・ジャクソンに色気を感じている自分に驚いた。私の好みは、顔のパーツが全部、線で書けそうな小作り、華奢、背があまり高くなく、アジア系(例:若い頃の川口浩)。なので、どこにもひっかからないはずなのに、踊るマイケル・ジャクソンを、性的な目で観ていた。


その不思議な感覚には覚えがあった。


すいぶん前、シネマヴェーラで「お熱いのがお好き」を観た時、途中からマリリン・モンローから目が離せなくなり、マリリンとキスするトニー・カーティスに嫉妬すらした。ずるい。その場所は私のものなのに。というじりじりした思い。スクリーンにマリリンが登場するだけで光を纏っているようで、そんな遠近感などない場面のはずなのに、マリリン以外の登場人物が後退して見え、つまり私の視界の中で、マリリンだけがスポットライトを浴びて輝き、マリリンだけが立体的だった。私の好みは例:若い頃の川口浩のような男であって、今のところ完全なる異性愛者だけど、あの時間、はっきりとマリリンに恋していたと思う。性的にも。


興味深いのは、それまで何度も「お熱いのがお好き」を観ていたのに、その日初めてそれが起こったこと。おそらく、スクリーンで観るのが初めてだったからではないか。銀幕でのみ光を放つ女だから、DVDではマリリンに出会えないのだ。


はたして、スターとは?と、考えるとき、まったくそちらに興味がない相手まで、強い握力で無理矢理にそちらを向かせ、薙ぎ倒し、釘づけにし、性的にまで支配する。という存在なのかな、と自分の経験をもって思う。きっとこれまで何百人、何千人とスターと呼ばれる人々をスクリーンで観てきたはずだけど、私の体感がスターとは?に答えるとすれば、マイケル・ジャクソンとマリリン・モンローの2人だけ。


マイケル・ジャクソンは映画的日常にめったに入ってこないけど、マリリン・モンローについては一番好きな女優を聞かれると即答し、スクリーンで観る機会があればいそいそと駆けつけ、少しでも触れられている文献があれば読み漁るという行動をとり続けている。成就することのない片思いのように。

2015-02-08

The store

 
 
ゴダール新作も始まった東京、観るつもりだけど、フレデリック・ワイズマン特集、2週間で終わってしまうので優先順位はこちら。長い映画が多いので最終上映開始時間が早く、仕事帰りに観に行けない。そして休みの日に時間が合いそうなのが「ドメスティック・ヴァイオレンス」だったりして、ここのところTVをつけるだけでニュース映像に気持ちが疲れてしまう日々が続いていたので、どうにも観る元気が出ない。
 
 
数行の映画説明を読み、比較的大丈夫そうなのを慎重に選ぶ。1983年のドキュメンタリー「ストア」は、82年、クリスマスシーズンの百貨店を撮ったもの。舞台はニーマン・マーカス本店。本店ってダラスにあるのね。百貨店で働く人々や、バックヤード、買い物客が映されている。
 
 
セールスミーティングでのお偉方の言葉。百貨店の存在意義は「物を売る」ことにある。当たり前なのだけど、言葉がクリアで無駄がない。婦人服売り場の販売員朝礼のような場所では、フロアリーダーなのか、女性が前に立ち、私たちの仕事に必要なのは、笑顔と手である!と力説し、だから柔らかくしておきましょう。と、首回りほぐしたり、手をぶらぶらさせたり。手が大事なのは、レジ打ちをするから、らしい。
 
 
毛皮売り場の上顧客担当は男性で、特別室のような別室で、奥さんに買うのか、男性相手の接客。カーペット敷きとはいえ、毛皮の裾が床についてもどちらも気にするそぶりもないのに驚き。お国柄…?なぜ床につかないように持ち上げない…?4万ドルもするのに…。
 
 
ニーマン・マーカスは老舗高級百貨店で、接客される顧客もどこか浮世離れしたような富裕層が多い。特に老婦人は、実業家の妻という感じの人ばかり。でも接客は慇懃な感じはせず、言いたいことは率直に言う。ドキュメンタリーを通じて、一切、説明がないので想像するしかないのだけど、担当してもらって20年、彼女からしか洋服は買わないの。というような、長年の信頼関係があるのかしら。従業員のほうも、顧客の生活や交友関係、クローゼットの中身まで把握した上でアドバイスしてるようだった。
 
 
 
 
この写真の場合、花柄のスカートを老婦人は気に入っているのだけど、腰に手をやる従業員は反対で、確かにいいスカートだけど、布地たっぷりで重いから、パーティーで長い時間履くと身体に堪えるのではないか?と主張して両者譲らず、の場面。
 
 
 
 
 
これは従業員休憩室のような場所で、50代に見える女性従業員の誕生日のサプライズお祝い。着ぐるみに入ってるのはたぶん中年男性で、ところどころ卑猥な言葉を浴びせつつ、最後にはストリップみたいに脱ぎ始めた…。今これやるとなんとかハラスメントでややこしい問題になりそう。80年代、おおらかな時代だったのね…。
 
 
宝石の接客の場面の次に、バックヤードで指輪の絵を描く人が映し出されたから、宝石売場の販促用の何かを描いてるのかな?と思ったら、デザイン画だったようで、道具を駆使してジュエリーを製作してる様子が映される。バックヤードものでは他に、洋服の縫製の場面があって、パンツの裾あげなどをするお直しセンターかな?と思ったけど、それ以上の本気度で、デザインから縫製まで一気通貫で洋服を仕立てる場所のようだった。ニーマン・マーカス、オリジナルでジュエリーや洋服を作ってる(作ってた?)のだろうか。不思議。あんなバックヤードのような場所で…。
 
 
それから面白かったのは、採用面接の場面。話を聞く限り学生(なのだけど、とても学生に見えない落ち着き)の女性が面接を受け、採用担当なのか男性が質問を投げかける。インターンで販売の仕事をして、特定の売り場だけでなくあらゆる売り場を担当し、その度に商品の特徴を覚えるのが楽しかった…などとアピール。通り一遍の質疑応答の後、最後にひとこと言いたいことありますか?と言われてからの、学生のアピールの長いこと長いこと。ニーマン・マーカスは憧れの場所であり、私はその場所にふさわしい人間になれるようたゆまぬ努力を続け、ついに今日、そのような人間になったのである。ですからして、募集されているこのポジションには、私の他にふさわしい人間はいないのである。もちろんこんな口調ではないけど、言いたいことはこんな感じ。
 
 
語学を勉強していると、教材に面接のシチュエーションでその言語を学ぶチャプターがよくあって、他の当たり障りない会話より、お国柄が出るなぁ。と思う。中国語で読んだのは「就職活動大変ですね」「そうですね、あなたコネありますか」「私はあります」「それはいいですね。私はないから大変です」という学生らしい初々しさ皆無の会話。コネ、中国語で「門路」って単語なのをその時知った。フランス語では、就職面接に来た中年女性と面接官の会話で、あなたなぜ仕事探してるんですか?と聞かれた中年女性が「これまで夫の会社で働いてたんだけど…夫が秘書といい感じになって…あの…ねえ…わかるでしょ?」という受け答えで、さすがに先生も「この人は自分のことを話し過ぎてるわ!」と呆れ顔だったけど、私はありがちなフランス映画か!とツッコミ入れた…。
 
 
そしてニーマン・マーカスの面接。従業員たちの様子を見ていても、人前でいかに魅力的な自分として堂々と話せるかが、ひとつの教養として重視されるのだなあ。最後に採用担当者が、面接はこれで終わりで、結果が出るまで3週間。それまでの間、あなたの前の勤務先や家族状況など、まわりの人に身上調査をさせてもらうよ。と本人の前で言ったのにも驚いた。高級百貨店だから経歴や育ちを気にするのだろうけど、そういうのは秘密裡に進めるものではないのだろうか。本人も驚いた様子もなかったから、当然のこととして受け止めているのだろうな。
 
 
ダラスの人々に、ニーマン・マーカスが拠り所のような場所であることは確かなようで、バイヤーは小さな頃の特別な思い出といえば、ニーマン・マーカスのレストラン(星座レストラン、と言っていたように思うのだけど、どんなレストランなのだろう)で食事したことか、ケネディ暗殺か、ダラスっ子ならそのどちらかね!と話しており、おお、ダラスってそういう場所なのだな、と妙に感心。
 
 
 
 
 
フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリー、視点をここに置け。と映像に指示されないので、視点はどこにでも好きに置いて良い。観る人の数だけ印象は違うだろう。消費社会に警鐘を鳴らすためにワイズマンはこれを撮ったのだ!と主張する人もいるだろうけど、そのような感想の人はきっと、消費社会に警鐘を鳴らしたい欲望がある人なのだろうと思う。私はただ、ちょっと深くまで入って82年のアメリカを定点観測した映像に思えた。スタッズ・ターケルがアメリカのあらゆる職業の人にインタビューして本に記録した切り口の映像版のような。公開当時に観ても面白くないかもしれず、30年以上経った今観ると、インターネットもない時代、人々は高級品を買おうとすると、ニーマン・マーカスで従業員に相談しながら買う。従業員はそのために準備をする。という、買い物の原風景のように見えて、もはや懐かしい。従業員たちのミーティング風景にもPCや携帯電話は登場せず、販売方針を伝えるのも何もかも、人から人へ。というシンプルさ。現在はそれに比べて販路は増えたけど、ミーティングで話される内容を聞いていると、販路が増えただけで販売戦略のようなものは30年前からたいして変わっていない。物を売ることはきっと人類誕生の初期からあるはずの職業で、本質はたいして変わってないんだろうな。という視点から、私は観た。
 
 
最後は創業75周年を祝うセレモニーで、会長が「マイ・ウェイ」を歌う場面で終わる。2時間、百貨店を映すだけの映像なんて退屈するかな。と思ったけど、まったく退屈せず、加速度的に面白くなる独特の体験。叙情を廃した淡々とした撮影、ところどころ挿し込まれるエスカレーターのショット、百貨店という巨大な生命体の大動脈のようで、クールで痺れた。