CINEMA STUDIO28

2015-03-31

江戸の桜

 
 
つる瀬、湯島天神近くが本店、千駄木にも店がある。自分が住んでる街の、こういうところが好き。
 
 
 
 
階段を上がるところから花見は始まっている。団子坂と並行する坂だから急…。ひたすら左を見て上がると…。
 
 
 
いちばん好きな桜を紹介します。森鴎外旧居前にある桜。銅像は舞姫をモチーフにしたもの。上野公園、谷中霊園、桜の名所に囲まれた場所に暮らしてるけど、ひっそりした位置にあるこの桜がいちばん好きだなぁ。ほぼ誰もいないのがいい。木の下に座るところが3席ほどあるのもいい。鴎外旧居が観潮楼という名前だったのは、かつて東京に高い建物がなかった頃、このあたりから海が見えたからだとか。たしかに坂の上だものね…。
 
 
 
 
取りいだしたりまするはつる瀬の櫻大福。ピントは櫻にあって大福にあらず(失敗)。
 
 
 
 
上を向いてこの写真を撮ってる時、舞姫と目が合って恐ろしかった。結末を知ってるだけにな…。大変やったね、あんた…。みんなでわいわい集って騒ぐのも嫌いじゃないけど、この時期は慌ただしく余力がない。夜にひっそりお気に入りの桜の下で大福食べて花見終了、というのも良いではないか。
 
 
 
桜といえば。ツイゴイネルワイゼンのこの場面。鴎外の桜の下で、周りの家を見ながら、上等の家というのは窓から桜が見える家ではないのか。と考えた。
 
 
 
桜といえば、けんかえれじいのこの場面。花札みたいな構図だったね。鈴木清順が散る桜を撮るのがうまいのは、江戸っ子だからかしら。などと考えた。花見2015、終了。

2015-03-30

裂け目のマグマ

 
 
岡崎京子展の続き。どの展示を観に行ってもそうなのだけど、ざっと順路に沿って最後まで観た後、邪魔にならないように気をつけながら順路を逆走し見落とした細部を観に行く。一巡目はやっぱりリバーズ・エッジの部屋や、ヘルタースケルターの煌びやかに飾られた一角に気をとられたから、卒業文集を見つけたのは二巡目だった。隅っこ中の隅っこにあった。小津についての文章を見つけたのも二巡目。自分は今、絵よりも文章に興味があるのだなぁ。
 
 
小津は好きだけど、よく知らない。3本ぐらいしか観てない。よくわかんない。と前置きしながら、小津映画は家族や東京を丁寧に描いて、あらゆる物語が含まれているように見えるけど、実際は何も描いていない。けれど、すごくフェティッシュな映画、フェティシズムの人だと思う。と、一度ざっと読んだだけだからうろ覚えだけど、岡崎京子はそう書いていた。私が映画に深入りするきっかけが10代で観た「麦秋」で、完璧な映画に思えたけど、そう思う理由がさっぱりわからず、わからない。ということは自分にとっては何より魅力的なことなので、対象のことはよくわからないけど、自分が惹かれる理由はよくわかる。という状態が大人になっても続いている。その頃、確かNHKで観た番組、吉田喜重監督がナレーションをしていたと記憶している小津についての番組を観たことで拍車がかかった。畳に座って複数の男が卓を囲む。短く切ったセリフを話す人物を中心に据えてローアングルから撮るショットの切り返し。男たちの座る位置、誰が誰の隣かを図解し、セリフと視線の行き先を矢印で追う検証をしてみると、AはBに向かって話しているはずなのに、視線はBのほうを見ていない。視線の矢印の方向が、会話のキャッチボールの方向と合わない。あ、よくできた虚構はこうやって作られているのか。と目から鱗だった。
 
 
最近、若尾文子のインタビューを読んでいて、小津監督についての回想のコメントの中に、浴衣の柄などは小津さんが選んでいるのか?という質問に「全部。頭の形から、分け目から小津さんが選んでます。置いてある美術品と一緒です。全部ご自分の決めたとおりに。だから手紙を書くときに鉛筆をなめるんですけど、その舐め方まで。こうやって次に鉛筆を舐めて…と細かかったです」と答えている。ひっ!髪の分け目まで!
 
 
登場人物たちが皆、小津好みに仕立てられ精緻に操作される人形ならば、時々ギクリとする女優たちの装いもすべて計算尽くで、「秋日和」の原節子の爪がギラリと光るようにわざわざパール入りのネイルが塗られていることも、強くギラリと光るように撮られていることも、すべて計算尽く。たしか「宗方姉妹」だったか、和服を着た田中絹代が、あの小作りな顔立ちやしっとりした物腰に似合わない、夜の匂いが微かにする黒いレースの手袋をつけているのも、すべて計算尽く。女優たちのそういった装いに不用意に出くわすと、小津を観ているときの不穏な気分が増す。
 
 
 
 
と、いうようなことを、3本しか観てない。よくわかんない。と書く岡崎京子も気づいていて、初めて小津について意見が一致する人に出会った。フェティシズムの映画、と書いた後には「晩春」の原節子に触れ、紀子は内側にどくどくと熱いものを持つ「裂け目のマグマ」を持つ女。と、そんな表現だったと思う。そう、パールの爪の女も黒いレース手袋の女も「裂け目のマグマ」の一派であって、考えてみれば小津映画にはそんな女はぞろぞろ出てくるではないか。小津が演出で精緻に動かそうとしても女優自身の抗いきれない何かが透けてみえる…といった種類の発露のしかたではない、あきらかにそんな女として描きながらも動きを封じ、ちまちま整えられた美しい箱庭に閉じ込めて愉しむなんて、小津はやっぱりフェティシズムの人だな、と頭いっぱい考えながら展示を見終えた。
 
 
これを書くために小津フィルモグラフィをまとめた本を横に置いてめくってみたのだけど、「晩春」は田中絹代がゾンビみたいな「風の中の牝鶏」と、黒いレース手袋の「宗方姉妹」の間の一本だったと知って軽くゾッとした。小津監督、この頃、何かあったのですか…。
 
 
岡崎京子は私にとって、いつか小津について話を聞いてみたい、語り合ってみたい人の筆頭であり続けるだろう。「晩春」の原節子、岡崎京子の漫画に出てきそう。紀子が平坦な戦場を生き延びる女に見えてくる。実際、小津を匂わせる作品もいくつかあった。他の作品を振り返ってみても、あんなに小津を語るのが似合う人はいない。

2015-03-29

戦場のガールズ・ライフ

 
 
何年ぶりかわからないほど久々に、世田谷文学館へ。前にここに来たのは、いつのことだろう・・。桜の花びらが鯉の背中に落ちてた。
 
 
 
混んでると聞いたので朝イチで行くつもりが、蓄積疲労に負けて朝寝。ごろごろしながら行くのやめようかな・・と思ったけど本当に行ってよかった。
 
 
最初に読んだのは90年代前半、漫画好きの人の部屋で薦められて。でも、その時はピンとこず。東京に引っ越して新宿に住んでた時代にハマって、たくさん単行本を持ってたなぁ。トップスビルの8階にあったユイットというカフェによく通ってて、応接間の延長みたいに人とよく待ち合わせしたりしていた。たしか2009年、ユイットが閉店すると知って最後に1人で行くことに決め、何か本を。と、本棚から選んだのが「リバーズ・エッジ」だったと思う。集中力がないのでカフェなどで本を読めないほうなのだけど、読み始めると止まらなかったのは、きっと物語の引力。読み終わって本を閉じお会計してユイットを出たら、新宿時代とでも呼ぶべきか、自分の第何章だかが本を閉じるようにパタンと小さな音を立てて終わった気がした。それから半年ほどで持ち物を整理し、岡崎京子の単行本も処分して新宿を引き払った。
 
 
最初に読んだときピンとこなかったのは、東京に住んでなかったからではないかしら。と、たくさん並んだ原画を見ながら、はじめてそう気付いた。どの街に住んでいる人の心でも引き込む握力のある作品群だけど、地名や店の名前、街並み、圧倒的な喧騒と背中合わせにある退屈さは東京に暮らしてみないとわからない種類のものも含まれていた。
 
 
小学校の卒業文集が半分開かれた状態で展示されていて、頭を傾けて読んだ。1年生の頃と何が変わったのだろう。教室が変わっただけで何も変わらない。女の子のほうがませていて、男の子はエッチなことを考えるようになった以外は子供のまま。などと書いてあり、もうそれは、岡崎京子が雑誌に寄稿するためにテーマを与えられて書いたような文章そのままで、卒業文集という場があまりに不似合いな文章だった。あの文体は持って生まれたようなもので、小さい時から岡崎京子として完成されていたのだなぁ。
 
 
この日記は必ず映画について何かしら触れることにしているので映画について書くと、「ヘルタースケルター」は映画館に観に行った。水原希子は本当に岡崎京子の漫画から抜け出てきたような顔をしているなぁ。と思い、沢尻エリカの、若さが美しさを後押しする最後の瞬間ギリギリの、崩れ落ちそうなタイミングの美しさが、そのギリギリ感と共に映っていることが、役柄にとても似合っていた。酷いところもたくさんあったけど、その2人が岡崎京子のキャラクターを演じるのを観るだけでじゅうぶんだった。
 
 
出かける前に身支度をしていて、冬の服と春の服が入り混じる中、無意識に手にとって身につけたのが黒い服で、パールのピアスなどもつけ、あ、これはどういう気分。もしや追悼気分。いやいや。と、pinkの靴を履いて気分を修正した。限られた時間がどんどん仕事で埋まる中、伊勢丹に這うように辿り着き洋服を買ったり、花を買ったりする時は今でも「お金でこんなキレイなもんが買えるなら、あたしはいくらでも働くんだ」ってユミちゃんの台詞が頭をよぎる。
 
 
31日まで。この日記は続く。

 

 

2015-03-28

神保町

 
 
久々にシャバに出てみたら世界がキラキラ眩しい神保町の夜。映画関連の古書が豊富な矢口書店、探してるパンフレットあるかな、って漁ってみたけど、なかった。時間をおいてまたトライ。
 
 
 
 
映画館にも復帰。岩波ホールで前売を買っておいたアラン・レネの遺作を観た。感想はいずれまた。
 
 
 
 
 
本郷を経由して1時間ほど歩く。いつの間にか、桜がこんなに咲いていた。ようやく酸素が注入された。

 

2015-03-27

Great last films?





小津スタディ。しばらく前、BFIのサイトに「10 great last films」という記事があり、小津「秋刀魚の味」が冒頭にとりあげられていた。



http://www.bfi.org.uk/news-opinion/news-bfi/lists/10-great-last-films



「秋刀魚の味」、最後の最後の変調の一言、亡くなる前に至った境地なのかな、と推測したけど、その前の年に撮られた「小早川家の秋」のほうがギョッとしたのは、直接的だけども、葬儀のシーンがあったからかな。喪服で歩く人々。彼岸から撮ったみたいなショット。


「10 great last films」にはエドワード・ヤン「ヤンヤン 夏の思い出」も入ってて、あれも葬儀の場面で終わったので、再見すると、わかっていてもギョッとする。こういうBest10ものは、未見の映画は観たいと思うし、選んだ人の主観が反映されていて、自分とは違う視点であっても楽しい。


私が好きなlast filmsはトリュフォー「日曜日が待ち遠しい!」。トリュフォーは作品もさることながら、彼の人生が好きで、誰か1人、映画監督を選んでその人の人生を生きさせてあげる。と言われたら、トリュフォーがいい。幼少期は辛そうだけど。


「日曜日が待ち遠しい!」は、生涯最後の恋人の美しい脚をこれでもかと見せつけ、サスペンスのはずが途中から破綻していき、破綻のしかたはいかにもトリュフォー的破綻と呼ぶべきぐだぐだ感があり、トリュフォーは愛する女性を撮る時、どんな物語でも途中から愛の物語にすりかわってしまう癖があるように思えて、そこがいい。追い詰められた犯人は、女が好きだ!愛に生きるのだ!と叫び(意訳)、最後は幼稚園児ぐらいの幼子の膝下・・・脚のショット。もうそれが、この中で俺好みの脚に育つ子はいるかなー?って脚フェチ青田買いショットにしか見えなくて、どどんと「今お届けしたのは~日曜日が待ち遠しいでした!」ちゃんちゃん!みたいな文字が出て終わる。なんて自分勝手な映画。あっぱれな遺作!


それからロメールの遺作「我が至上の愛 アストレとセラドン」も、トリュフォーの次点にくる好きな遺作。これは最近、再見したので、そのうち書く予定。

2015-03-26

竹村家/ありがとう/すみません




身動きとれぬ時期だけど、そういう時ほど妄想は広がるもので、遠方の友人から早くも夏の予定について打診があったので、あちらこちらの土地に思いを巡らしている。うまくいけば、小津的ツアーを敢行することになりそうで、それまでの時間、小津スタディに励もうと思う。


私は同行しない旅程だけど、教えてもらった尾道の料亭旅館・竹村家は、「東京物語」撮影時、監督、俳優たちが宿泊した場所で、撮影にも使われたとか。写真を見る限り、完全に映画の世界だなぁ。当時、松竹の脚本家・柳井隆雄のいとこが経営していたらしく、映画撮影に協力的だったことが縁が生まれた理由だとか。






じゃらんを見ていると、部屋別に、小津監督、原節子、香川京子が泊まった部屋、と書いてある。




いつか必ず行く場所として、やっぱり小津監督の泊まった部屋に泊まりたい!DVDが備えてあって、ゆかりの部屋で観られるらしい。


写真はパリのシネマパンテオン。ユスターシュ「ママと娼婦」を観に行ったら、別の上映室で「東京物語」がかかってて、そちらは観なかったけど、左下にポスターが小さく映ってる。 仏題はVoyage à Tokyoといって、この映画館ではなく、パリに着いたばかりの頃、部屋の近くにあった日本文化会館での小津特集で人生何回目かの「東京物語」を観た。


亡くなった夫のことを、この頃は忘れてる日も多い。私はずるいんです。と泣き出した原節子に、東山千栄子は腕時計を差し出し、原節子は受け取りながら「すみません」とさらに泣く場面、仏語の字幕は「merci」になっていたのを観て、「すみません」って、訳しにくい言葉だな、と思いながら、翻訳で零れ落ちるものはいたしかたないとしても、原節子は「ありがとう」とは言ってないぞ・・!ありがとうって言う女とすみませんって言う女じゃ、大違いじゃないか!とj声を大にして主張したくなった。


あれから「東京物語」を観ていない。小津スタディの一環として、再見しなければ。

2015-03-25

Jacquot de Nantes





メゾンエルメス、3月のプログラムは「ジャック・ドゥミの少年期」。アニエス・ヴァルダが死の淵にある夫の少年期を撮ったもの。再現ドラマに撮影時点の老いたドゥミを撮った映像が挿しこまれる。ドゥミはこの映画の撮影中に亡くなったとのこと。


http://www.maisonhermes.jp/ginza/movie/archives/7691/


原題「Jacquot de Nantes」、ナントのジャコ。ジャコはジャックの愛称で、ナント時代、家族や近所の人々からジャコと呼ばれていたらしい。港町、待つ女、兵士、抗議する群衆・・・ドゥミの映画は同じモチーフの反復が多く、どれもナントでの少年期の経験からきているのだな。父親は修理工、母親は美容師、それらの職業も登場人物たちの職業として映画に使われていたり、ブラジルからやってきた派手で羽振りのいい叔母さんから聞いたギャンブルのエピソードが、賭けて賭けて賭けまくる「天使の入江」のジャンヌ・モローのキャラクターを生み、叔母さんがドゥミの家族にキスして口紅が頬につき「あら、口紅、ごめんあそばせ」のセリフは「ローラ」に登場した。当たり前といえば当たり前なのだけど、表現されたものは、その人が世界をいかに見たかの反映で、ドゥミは周りをよく観察し、全部自分の映画に投入した。ナントでの少年時代にその種の多くはあったことが描かれている。


映画にとりつかれ、映画館に足繁く通い、友達からは「映画博士」と呼ばれ、かかっている映画の中でお薦めは何かを尋ねられると、全部観ているから熱っぽく何が良かったかを語る。「ローラ」や「都会のひと部屋」に登場するナントのアーケードにある店でカメラを手に入れたドゥミは映画を撮り始め、反対する親を説得し、映画技術学校に通うためにパリに出るところで映画は終わっている。去年、フィルムセンターの展示では、映画技術学校の学生証や、学生時代に描いた自画像、撮った映画、動かしてコマ撮りするためにつくった人形も観た記憶があるので、ドゥミの人生の、展示される前段部分を映画で見せてもらった気分。


ドゥミの人生を知りたい欲望がある観客には、おおいに満たされる映画なのだけど、ふと考えるのは、妻がこの映画を撮ることを、ドゥミはどう思っていたのだろう、ということ。死ぬ間際、人はこれまでの人生のさまざまな場面を走馬灯のように振り返る、と聞いたことがあるけど、これはまさにそんな映画であって、撮っているのは妻。妻が夫の走馬灯映画を撮る。そこに妻の映画監督としての図太い欲望を見る気もして、はたしてドゥミはどんな気分だったのだろう。ま、他人がどんな気分だったのだろう。と考えたところで、アニエス・ヴァルダが妻である。ということは、そういうことですよ!ということなのかもしれないけど。ところどころ挿入される死の間際のドゥミの姿は、あちらの世界に片足を踏み入れているような半透明感も漂い、妻のカメラがドゥミの全体だけでなく、皮膚や皺といった細部まで寄っていく様子は、撮ったそばから過去になっていく今、目の前を記録する、間もなく灰になる愛する人の肉体をフィルムに焼き付けて永遠にする、カメラはたしかにそんな道具だったね。


はっとしたのは、幼いドゥミが祖父の墓参りをする場面。ジャックの名前は祖父からもらったもので、祖父の墓石にはジャック・ドゥミと彫られており、幼いドゥミはそれを見ながら、生の儚さを思った。とナレーションが入る。ドゥミの映画は衣装や音楽でカラフルに彩られていても、そのそばでいつも死の香りが漂うけれど、幼い時の戦争経験だけではなく、祖父と同じ名前のせいでもあったのかな。

2015-03-24

Lubitsch touch!!




もうすぐ刊行されるエルンスト・ルビッチについての本を楽しみに待ってるのだけど(3月末だと思ったら、4月に発売が延びている。早く読みたい・・)、読破したらば、あとは映画館にルビッチがかかるのを気長に待つんだ・・・東京で期待できるのはシネマヴェーラで年2回ある「映画史上の名作」特集で、運が良ければ夏と冬それぞれ2、3本かかるから、年4、5本ずつコツコツとフィルモグラフィを制覇していけるかな・・・と、けなげな計算をしていたのだけど、映画の神様がけなげな私に微笑んでくれたようで、本の刊行にあわせて、シネマヴェーラでルビッチ特集が!4月から5月にかけて!全19本も!!






スケジュールも出ている。なぜ「花嫁人形」は1回しか上映がないのか。観られなさそうなことがほぼ確定して今から辛い。でも、すでに観たものも時間の許す限り再見するのだ!





ルビッチがディートリッヒと組んだ「天使」、何年か前に観たのだけど、また観たいなぁ・・でもDVDで?と思っていたので嬉しい。自分で小型飛行機を操縦しながらパリに向かう、ディートリッヒの登場シーンからもはや素敵。物語の筋の記憶が薄れてしまった今でも、大人の女の振る舞いとは何か、と考えるとき、この映画のディートリッヒのことを思い出したりする。


でも、ディートリッヒはこの映画、好きじゃなかったようで、自ら批判するコメントをしたとか。そのあたりも本を読めば詳しく書いてあるだろうか。









撮影中にあったと思われるルビッチの誕生日、ケーキを食べさせるディートリッヒ。仲良さそうなのに・・・仲良さそうなその表情ももしや演技・・・?女優って・・・。

2015-03-23

シャンテ・日劇

 
 
わぁ、びっくりした。2018年、TOHOシネマズ日比谷ができるかわりに、シャンテと日劇が閉館とのこと。まだ先の話。って思っていても、あっけなくその日は来るのだろうな。
 
 
 
 
去年「インターステラー」を観ようと思って時間を調べていたら、ちょうどその日がフィルム上映での最終日で、最終回に駆け込んで観た時、つい最近までフィルム上映しかなかったのに、フィルム上映が珍しくてイベント化するまであっという間だったな…と、展開の速さに薄ら怖くなった。
 
 
最有楽座が閉館した時、テナント自体の建て替えにせよ、東宝のお膝元だもの、日比谷・有楽町界隈の映画館は一気に閉館してシネコンになるのでは…と思っていたところだった。シャンテと日劇、どちらも好きな映画館で…というより、あまりに日常の一部なので好きかどうか考えたことすらない場所で、映画館の新陳代謝がいよいよ自分の生活に差し支える事態になってきたということか。シネコンは設備も良くて快適だから嫌いではないのだけど、あの界隈をぶらぶらしながら、どこで何の映画を観るかぼんやり考えるのが好きなんだよう。しょっちゅう行くのに時々、名前と場所が頭の中で絡まって整理できなくなって、iPhoneで調べて辿り着いたりして。
 
 
日劇は名前が好き。日本劇場の風格?の名残りというか。昔の映画で日比谷界隈が映ると当然のように日劇が映ったりしていた。シネコン以外にも映画館があった。と懐かしく話すようになるのは、遠い未来の話ではないのだろうか。

 

2015-03-22

femme fatale?



金子國義さんが亡くなられた。


思春期の終わり頃、彼の絵のような世界に傾倒する時期が、女性の通過儀礼のように存在するのでは。と思ってるのだけど、どうだろう。私はそうだったけど、周りに尋ねてみたことはない。


2012年12月、オーディトリウム渋谷で「金子國義スクリーン vol.1」というイベントがあり、「妻は告白する」の上映後、若尾文子さんが登壇して金子國義さんと対談する、という豪華さだった。


金子國義さんは大の若尾ファンで、チラシによると「作品を繰り返し鑑賞。彼女の作品音声を録音しアトリエで聴きながら作品創作する程に耽溺しているという」。会場入口には、チラシの絵の原画が飾られていた。びしょ濡れになった若尾文子が思い詰めた表情で若い愛人の勤め先に現れる。クライマックスと呼べるこのシーン、なんと撮影の最初に撮られた、とこの日の対談で知って驚いた。


金子國義さんは長らくの憧れの君を前にして舞い上がったのか、何度も同じ話がループし、ことあるごとに「私は…ほんとうに…あなたの…大ファンなのですよ…」と繰り返した。お酒でも飲んでいるの?って思ったけど、あれは若尾さんに酔っていたのだろう。酩酊状態であることには変わりがない。


このイベントは「ファムファタール 女優 若尾文子」と名付けられているのだけど、他の映画は別にせよ「妻は告白する」の若尾文子の、どこがファムファタールなのだろう。愛人に走って夫を殺すことは確かに悪い女の振る舞いだけど、ファムファタールはあんな表情で男を追い詰めたりしない。男を翻弄しているようでいて、翻弄されていたのは女のほうで、激情型の女が不器用ゆえに事態を狡猾にやりすごせなかっただけの話ではないか。


と、私は長らく思っていた。けれども、激情型の不器用な女をファムファタールと形容し、崇拝して絵まで捧げる。それは男の優しさというものかもしれず、最近あの対談を思い返してみて、白黒ばっさり斬り捨て振り返りもしなかった何かにようやく触れた気がしている。


「金子國義スクリーン」はその後シリーズ化されたのか、続きがあったのかは知らない。金子國義さんが他にどんな映画を、女優を好きだったのか、もっと聞いてみたかった。

2015-03-21

Notes sur le cinematographe

 
 
4月といえば、ブレッソン「やさしい女」のデジタルリマスター版も公開ではないか!公開を知ってから「恐怖分子」と並ぶ楽しみ事項だった。
 
 
 
 
先週「恐怖分子」を満席のイメージフォーラムで観ながら、満席、素晴らしいことだけど、他人の発する音や気配を完全にシャットアウトした無菌状態の上映室・・さらに言うならミラノ座ほどの大スクリーンで、たったひとりで「恐怖分子」を観ることこそ、私の欲望である。と思った。神経質ではないほうだけど、1秒も画面から気を逸らしたくない。そして、ブレッソンの映画もそうであるなぁ。早稲田松竹で「スリ」「ラルジャン」を観た時、近くの老婦人あたりから聴こえるビニール袋のチリチリ音がずーーーーーっと続いて、だいぶ辛かった。まぁどういう環境でもブレッソンやエドワード・ヤンならば駆けつけてしまうのだけど。
 
 
「やさしい女」は大好きな「白夜」と同じく、ドストエフスキーとブレッソンの組み合わせ。原作を知らないけど、「白夜」は数ページ読んで、主人公のあまりの饒舌さにうんざりしてそっと本を閉じた。あんなによく喋る男をぴしゃっと黙らせ、物語のエッセンスだけ取り出した(であろう)ブレッソンの手つきに、今回も期待。
 
 
「シネマトグラフ覚書」は原書を所有。公開までに読みたいのだけど、すっかり仏語を忘れてる上に、頭がとても疲れてるので、たぶん間に合わないだろうな。

 

2015-03-20

Foxcatcher

 
 
 
 
角川シネマ有楽町で。公開日、手帳に書いてたのに終了間際に滑り込み。空いてた。
 
 
 
 
 
ベネット・ミラー監督、実在の人物の人生を映画化することが多い人だけど、過去の「カポーティ」も、「マネー・ボール」も好きだった。物語の細かいところはもう忘れてしまってるのだけど、フィリップ・シーモア・ホフマン演じるカポーティの「君たちのコートは安物だけど、僕のコートは一流品だ」というセリフ・・うろ覚えなのできっと正確じゃないけど、あのセリフ、物語自体にはたいして必要じゃないけど、カポーティのキャラクターを肉付けするのにとても必要なセリフだった気がして、記憶に残ってる。「マネー・ボール」は、ブラッド・ピットの電話のかけ方など。私は人と話してる時も、相手が何を話してるかよりも、眉の形や、着ている衣服の繊維のたわみなど、そういうのばかり見る癖があるので、現実でも映画でも、記憶に残るのはそういうことばかり。
 
 
「フォックスキャッチャー」はアメリカで何番目かの富豪、財閥の家系に生まれ、勤労など経験してないであろう中年男が、レスリング金メダリストを射殺した現実にあった事件を映画化したもの。3人の俳優、みんな素晴らしくて、マーク・ラファロも素敵だったのだけど、特殊メイク(つけ鼻など?)でスティーブ・カレルのそっくりさんみたいなスティーブ・カレルと、チャニング・テイタムはもっと良かった。
 
 
まずスティーブ・カレル。「ラブ・アゲイン」でライアン・ゴズリングに説教されてたあのお父さんと同一人物とは思えないシリアスな怪演。スティーブ・カレルにこの役ができるのではないか。と、思いついた人の勝利だし、期待に応えたスティーブ・カレルも見事。後半、静かに壊れていくに従って、肌のきめが荒れていく・・・百貨店の化粧品カウンターで、お肌の調子をピッと光をあてる機械で見てもらったとき、菱形のようなきめが、菱形のシェイプも整っており、ふっくらしていれば良し、そうれなければ乱れてる。って言われる、ドキドキの機械。あれで後半のスティーブ・カレルの肌をピッとやったらば、きっと荒れてる。そして高価な化粧水やクリームを薦められるであろう、そんな肌。あの肌まで特殊メイク?だとしたらなんて細かな仕事なのだろう。特殊メイクでないとしたら、スティーブ・カレル、どうやって肌まで役作りしたんだろう・・・ストレス?食生活?運動?そのあたりを調節して・・?
 
 
 

 

 
 
 
 
そしてチャニング・テイタム。「マジック・マイク」では従順な可愛い大型犬って感じだったのが、この映画では獰猛で情緒不安定な大型犬って感じで、どっちにしても犬。金メダリストのはずなのに兄の功績の陰に隠れ、鬱屈した感情を抱える弟。冒頭、ジムから家に戻り、インスタントラーメンみたいなのに水をかけてレンジでチンする場面があったけど、それってどういう食べ物・・?とりあえず経済的に困窮していることは伝わり、スティーブ・カレルとの出会いで彼が輝いていく展開に繋がっている。マッチョな身体が特徴の俳優だけど、マッチョなだけの男ではないあたりが素晴らしい。この人がいるおかげで、アメリカ映画のバリエーションは多彩さを維持できるのではないか。
 
 
フォックスキャッチャー、富豪が抱えるレスリングチームの名前でもあり、もちろん「狐狩り」のことでもある。猟犬を追い立てて、狐を噛み殺させる。人間はただ猟犬を追い立てるだけで手を汚さない、貴族の戯れ。観終わって振り返ると、なんてこの映画にふさわしい名前だったのだろう。

 

 

2015-03-19

キャスティング問題




ちょっと先の未来に楽しみをぽんぽん置いておく作戦、6月~8月の長きにわたって開催される若尾文子映画祭、ラインナップが発表され、圧倒されている・・。けっこう観てるつもりだったけど、まだまだ白帯だったのだな。こんな大量の映画が並んでも、若尾文子フィルモグラフィのまだ一部という事実にまた驚く。働き者!




あ、と思ったのが「雁」。「雁」の映画化は、高峰秀子主演の1回のみだと思っていたけど、若尾文子版もあったとは。これまでの人生で読んだあらゆる小説の中で、一番好きかもしれないのが鴎外「雁」なので、映画版も観てみたいと思いつつ、これまで一度も機会がない。好きな小説だけに抵抗があるのか、ヒロイン・お玉、高峰秀子のイメージじゃない。儚さが足りぬ。そして妄想してみるに、若尾文子のイメージでもない。でもどちらも演技の確かな女優さんだから、きっと映画は映画で見どころがあるのだろう。






長い間、再読していないので、とても好みの小説だった。という以外に記憶が薄いのだけど、自分の好きな映画の傾向を考えていて、人生がささやかなタイミングの積み重ねでできており、タイミングによって結末が大きく左右されることを描くような物語、女の自立を描く物語を好きだと思うことが多く、ふと考えてみると、「雁」には、どちらの要素もあるではないか。最初に読んだのは高校の時だったけど、人の好みって大きく変わらないのだな。


女の自立もので私が一番好きな映画「女は二度生まれる」も若尾文子主演だったことを考えると、文子さまであれば、「雁」のお玉もまた魅力的なのかもしれない。


これは観たい・・・!けど、平日の昼間なのよね・・。休むのが難しそうな時期だけど、なんとか頑張ってみるか・・。

2015-03-18

Best flyer of the year?

 
 
家にいる時間がなさすぎて(仕事の時間が長くて)わたわたする季節が始まっており、しばらく続きそうで、ああ…映画館に行きたい…。こんな時期はちょっと先の未来に楽しみをぽんぽん置いておくと精神状態を良好に保てるってもう知ってるので、来たる4月の上映情報が薬みたいに効いてる。
 
 
海外の映画祭での受賞情報や、あの監督が新作撮ったらしいよってニュースなど知ったところで、いつか東京で観られるといいな・・って遠い目するだけだけど、封切り日が決まり、チラシが散らされはじめると、おお!ついに!って俄然楽しみになってくるから、紙一枚とはいえ、モノの重みよ。と思うし、チラシ文化なくなってほしくないなぁ。
 
 
最近もらって嬉しかったチラシはグザヴィエ・ドランの新作「Mommy」のもの。カンヌで審査員特別賞をゴダールと同時受賞し、フランスの封切りでは同じ日に公開された「ゴーン・ガール」を抜いて動員1位とのこと。アスペクト比が1:1の正方形、Instagramの動画みたいな映画らしいから、チラシも正方形!チラシではじめてあらすじを知ったけど「2015年、架空の国、カナダで起こった現実・・」って、SF風味なの?「こいつ、映画、変えそうだ」ってコピーのセンスはどうかと思うけれども、期待がそれを補って余りあって、このチラシ、年間ベストチラシ候補、今のところ。
 

 

 

2015-03-17

「順応主義者たちの混乱」

 
 
 
京都で聴いたのに、記憶から抜け落ちているエドワード・ヤンのQ&Aについて、誰か丁寧な方が記録してないかな・・と検索してみたけど、見つからない。94年、インターネットが普及する前の話だものね・・・。
 
 
しかし、エドワード・ヤンが京都にいたあの時にあったと思われるインタビューの書き起こしがあった。
 
 
 
 
 
 
このインタビュー記事のタイトル「順応主義者たちの混乱」は、「獨立時代 」 の英題が「A Confucian Confusion 」直訳すると儒者の混乱であることにちなんでのことだろう。読んでいると、父親が儒者、母親がクリスチャン、上海で生まれ台湾で育ってアメリカに渡る、異なる価値観の狭間を生きることが常態の人生で、エドワード・ヤンの映画が台北を描きながらも世界のどこにも通底する普遍をはらんでいるのは生まれ育ちゆえなのか、と思う。
 
 
インタビューは英語で行われたそうで、2007年、東京国際映画祭で追悼上映の際、主演の呉念真 (ヤンヤンの父親を演じた俳優)が来日し、撮影の思い出を語ったとき、エドワード・ヤンの脚本はまず英語で書かれており、台湾の國語に置き換える時、呉念真が手伝って表現がスムーズかどうか確認した、と話していたことも思い出した。私のエドワード・ヤンへの興味には、2つ以上の言語を用いて生きる人への興味も多少は含まれているのかもしれない。
 
 
「獨立時代 」(エドワード・ヤンの恋愛時代)を1月にDVDで見直したので、まだ身体に残像がある状態でこのインタビューを読むと、たしかにあのラストシーンに至るまでの過程は、エドワード・ヤンが引用する「浜辺の砂がどんな感じだったか言わないで、わたしが自分で歩くから」 というジッドの言葉に裏打ちされているな、と解説してもらった気分になった。
 
 
このインタビュー、これまで何度も検索しては読み返してるのだけど、今回、!!!と思ったのは、インタビュアーが加藤幹郎さんだったこと。京都だもの、この方が出てくるのは当然ということか。「映画館と観客の文化史」が映画的興味を満たしに満たしてくれて、memorandomの本のコーナーで紹介した、あの本の著者。エドワード・ヤン×加藤幹郎さんのこのインタビュー、盆と正月がいっぺんに的、好きな監督の映画に好きな俳優が主演する的、私にとってどちらもアイドル(?!)。の、おいしいキャスティング!

2015-03-16

94年、楊德昌在京都





エドワード・ヤンを初めて知ったのは1994年のこと。その年、東京国際映画祭は、まるごと京都で開催された。遷都1200年記念・・・鳴くようぐいす平安京、794年から1200年・・・にちなんでの開催だったけど、東京の映画祭をまるごと京都で・・って、なかなか大胆な決断だと今になって思う。


長く京都の学校に通っていた私にとって、映画館めぐり人生の開始は京都で、映画祭のチラシもどこかの映画館でもらったはず。映画祭なんて、ただの学生には関係のない、遠くの華やかなお祭りだと思っていたけど、チラシをよく読むと一般にもチケットは発売され、それは何故か通常の映画料金よりも安く、学生はさらに安くて800円かそこらだったと思う。夢のお祭りに参加できるのに、いつもよりチケットも安いなんて、狐につままれたよう・・・と、チケットぴあのカウンターだったかにとりあえず向かってみるとあれよあれよとチケットは買えたので騙されているのかと思った。実際に会場に行ってみて映画がちゃんと始まるまで、半信半疑の気分は抜けなかった。


学校の時間割とタイムスケジュールを照らしあわせ、複数の会場で同時進行するプログラムの中から、博打気分で映画を選んだ。せっかく気軽に観られる値段なのだから、ふだん観ない映画を観ることに決めて、小さな写真と数行の紹介の文章を読んで選んだ中に、エドワード・ヤンの映画があった。


会場に入ってみると席は前のほうで、東京から来たらしい映画関係者も多く、隣に座った女性は本で顔を見たことのある評論家だった。10代の若い観客が珍しいのか、どうしてこの映画を観に来たの?と聞かれたので、台湾の映画って観たことがなくて。と答えたら、この監督の前の映画が素晴らしくってね。と教えてくれたので、楽しみですね。などと答えた気がする。前の映画が「牯嶺街少年殺人事件 」というタイトルで、それから何年も後に観た。「90年代を代表する」といった説明がつきがちな傑作であることに加え、日本では権利の関係でなかなか上映されないがゆえに伝説化していくのはずっと後のことだったと思う。


照明が消えて始まったのは「獨立時代 」というタイトルの映画で、世界でも有数の豊かな都市になった台北を舞台に、30歳前後の孤独な男女たちが登場する群像劇だった。家族と一緒に暮らす10代の学生、という自分にはずいぶん遠い、知らない国の職業を持った大人たちのはずなのに、最後のシーン、エレベーターが閉まって、開いて、暗転し、音楽が流れた瞬間、椅子に固まってもう永遠に立ち上がれないかもしれない。と感じるほど、「映画」というものが重みを持って頭上から降ってきた。


映画祭らしく、上映後にはティーチインがあり、エドワード・ヤン監督が登壇し、いくつか質問に答えていたけれど、内容を覚えていない。冷静な語り口の人だな、と思ったことは覚えている。カジュアルな服装で、背の高い人だな、と思った。サングラスをかけていたかもしれない。ティーチインが終わって会場の外に出ると、ちょうど監督も出たばかりで、1メートル先を歩いていた。やっぱり背の高い人だな、これからいくつもこの人の映画を観られる同時代の人、幸せだな、と思った。



あれから私はあちこちを移動した後、世界でも有数の豊かな都市である東京に暮らす職業を持った大人になり、登場人物たちの年齢もきっと追い越した。あの日もらったプレスシートは気まぐれに度重なる引越しに耐え、今も本棚にある。「獨立時代 」は「エドワード・ヤンの恋愛時代」という邦題で公開された。監督自身による映画の解説、そしてプレスシートだから連絡先、好きだったという鉄腕アトムにちなんだ「原子電影 」というプロダクションの名前と、台北から始まる住所と電話番号が載っている。捨てられるはずがない。

2015-03-15

movies of the day

 
 
「恐怖分子」デジタルリマスター版公開、昨日から。エドワード・ヤン短篇デビュー作「指望」も含まれる4本から成るオムニバス「光陰的故事」が朝から、それ以降の時間は「恐怖分子」という時間割。どちらも過去にスクリーンで観ているけど、もちろんどちらも観た。
 
 
やらなきゃいけないこと山々あるはずなのに、エドワード・ヤンを観てしまうと何も手につかなくなる。ということを忘れていた。というより、亡くなってから7年以上経っても、まだ喪失感から抜け出していない自分に驚く。2007年訃報はパリに居た時に知って、文字通り3日間泣きっぱなしに泣き、今日も上映前に泣き、上映後にまた泣いて、泣きながら青山通りを歩くはめに・・。映画の内容とは関係なく、こんな映画をつくった人がもうこの世にいないことが寂しすぎていくらでも泣いた。終わったことにはずいぶん淡白なほうなのに、どうしてだろう。と考えて、やっぱり誰も替わりがいないからなのだろうな、と思い至る。
 
 
「光陰的故事」は2週間限定のようだけど、「恐怖分子」は4月に入っても続くようなので、観たばかりということもしれっと忘れて、必ずまた観に行く。その後にでも感想が書けるだろうか。冷静にならなければ・・。
 

 

 

2015-03-14

ポスターでみる映画史 part2 ミュージカル映画の世界

 
 
観たい映画は山々あるけど、今日はフィルムセンターへ。
 
 
 
 
「ポスターでみる映画史 part2 ミュージカル映画の世界」はアメリカのミュージカル映画の本国版ポスターが50点以上展示されており、コレクターでもある和田誠さんが貴重な私物をたくさん提供されたとのこと。15時から和田さんが会場に登場、歴史の古い順…展示の最初は「コンチネンタル」から、最後は「オール・ザット・ジャズ」まで、ほぼ省略なしでほとんどの映画のポスターを解説していただきながら一緒に眺める、という贅沢な時間。並ぶポスター群、確かにそれだけでミュージカル映画史のお勉強になる錚々たるタイトルばかりだったから、かいつまんで話すなんて難しい注文というもので、45分の予定が75分に延長され、たっぷりお話を伺うことができた。
 
 
和田誠さんは1936年生まれ、50年代、60年代の映画はまさに青春時代の楽しみだったのだろうな。戦後、ラジオから流れたドリス・デイの歌声に魅了されたとのことで、ドリス・デイの出てる映画ポスターコレクションが豊富。「会ったことはないんだけどね。会うときっと、好きになっちゃうだろうな!」とのこと。「私を野球につれてって」の歌を鼻歌で歌いながら「ま、僕が歌わなくてもいいんだけど」とおっしゃったり「雨に唄えば」を口ずさみながら「これは歌だけじゃすまないね!タップダンスも踊りたくなるからやめないとね!」とおっしゃる和田さんに、学芸員の方が「踊っていただいてもかまいませんが…」と合いの手を入れられたので大笑い。
 
 
主に映画そのものの解説をされ、日本未公開のものも多く、和田さんもご覧になったことのない映画もあるのだとか。ポスターそのものについての解説は、始めるともっと時間がかかっちゃう!ということでなかったけれど、大満足。和田さんのウキウキとした語り口が、ラジオの前でお気に入りの映画音楽が流れてくるのを今か今かと待ち構えて映画館にかかるのを待ちわびた少年のままのようで、華やかなミュージカル映画のポスターの色彩や跳ねるようなフォントとぴったり合っていて、素敵な時間だったなぁ…。うっとり。
 
 
 
 
入場時にいただいたリーフレット、1本ずつ映画について解説も載っており、ミュージカル映画の貴重な資料にもなっている。デザインも美しい。観たくて観ていないアステアの出てる「絹の靴下」、ルビッチ「ニノチカ」のミュージカル版リメイクだとは知らなかった…!和田さんの解説で教えていただいて知った。作曲家についての解説もふんだんにあったから、コール・ポーターの伝記映画「夜も昼も」も観たいし、最近?製作された奥さんの視点(コール・ポーターが同性愛者と知りながらの結婚だったとのこと)から描いた伝記映画も観てみたい。観たい映画がドサッと増えて嬉しいながらも困る展示だったな…。
 
 
 
 
和田誠さんご自身の本はたくさん読んだし、挿絵を描かれた本もたくさん読んだはずだけど、図書館派だから手元にないな…と本棚を探ったら1冊あった。去年トリュフォー特集で「思春期」を観た後、絶版になっていた監督本人による原作本を古本で手に入れたのだった。表紙のこの絵は、映画館のシーンだったかな。大切に読もう。

 

 

展示は東京では3月29日まで、その後、京都に巡回するもよう。

http://www.momat.go.jp/FC/musical/

 

 

 

2015-03-13

ニッポン無責任時代




2月に観た映画。六本木ヒルズ、午前10時の映画祭で「ニッポン無責任時代」。観たい理由はたくさんあったのだけど、長らく見逃してる間に理由を忘れて、観たい気持ちだけが残っていた。


高度経済成長期の東京、のらりくらり世の中を渡り歩いてるふうなのに、あれよあれよと出世していく男・平均(たいら・ひとし)。高級クラブで財布も持たず飲み、何か月も家賃を滞納し、手ぶらで動く。周りが彼の調子のいいそぶりに気をとられてるだけで、実はかなり賢い男だから、そぶりだけの真似は禁物というもので、植木等演じる平均、大口開けて笑っていても、目の奥が冷たくてうすら恐しい。そして歌声だけじゃなく、普段の話し声から、かなり美声なのね。


意外だったのは、いまいちテンションに乗り切れず消化不良感が残ったこと。「きみも出世ができる」(好き!)より、さらにポップな映画なのでは?と思っていたら違った。「ひとこと余計」な印象のカットがちょいちょい挿まれてテンポをぐっと悪くしてる気が・・・。大ヒットしたらしいから、その時代に合ったテンポだったのだろう。






面白いところももちろんあって、平均はあちこち出没するよく動く男だから、60年代初めの東京の風景がしっかり写っていて楽しい。大手町、恵比寿、数寄屋橋。


午前10時からこの映画を観た後は、すぐ帰宅して気分を切り替え、memorandomの原稿を仕上げなければ・・という日で、新宿ミラノ座のことが頭の隅から消えなかったのだけど、ふと、この映画に写る東京、ちょうどミラノ座ができた頃と時代が重なってるのでは・・・と思い浮かび、観終わって調べてみると、ミラノ座は1956年開館。「ニッポン無責任時代」は62年の映画だから、登場人物たちが仕事が終わった後や休日のデートに、ミラノ座に映画を観に行く。という設定があったとしても、間違ってはいない。「ニッポン無責任時代」は、いま観るとしっかり古さを感じさせる映画だったから、ミラノ座のあちこちが経年劣化でセピア色の懐かしモード漂っていたのも、当然のことだったのだな。そう考えると、東京を見る目も少し変わってくる。色褪せない映画もいいけど、しっかり色褪せる映画も、それはそれでいいなぁ。

2015-03-12

memorandom / 東京・消失・映画館 第一回


 
 
長谷部千彩さん主宰のWebマガジン「memorandom」で連載がはじまります。
タイトルは「東京・消失・映画館」
震災を経験し、オリンピックに向けた開発が始まった東京は、どんどん映画館を失っています。
消えてしまった映画館に新しい映画がかかることはもうないけれど、
東京に暮らす人も、そうじゃない人も。
私と一緒に、最後の上映を観ていただければと思います。
 
 
 
memorandomアーカイブはこちら
 
 
味のある素敵なイラストは、
memorandomのデザインを担当されている井出武尊さんが描いてくださいました。
絵看板、何の映画を想定して描かれたのだろう?って妄想中…。

 

2015-03-11

Lubitsch touch

 
 
 
たくさんの映画本が読みたいリストに入ったまま手つかずだけど、こればかりは素通りできない。今月の終わり、ルビッチ本が発売される!
 
 
「ルビッチ・タッチ」!!
 
 
 
何年も焦がれていた本がついに(興奮)!まとまった日本語のルビッチ本が存在しなかった(はず)ので、とりあえずフィルモグラフィだけでも教えておくれよ・・・と、古い特集上映のパンフレットを手に入れたり、地道に情報を集めていたよ。
 
 
日本語と英語のwikiに書かれた内容、何度も読んだから詳しくなった。ルビッチ・エピソードで好きなのは、
 
 
「心臓発作で死亡。性交後、汗を流すために浴室に入り、そこで倒れたとルビッチの弟子のビリー・ワイルダーは伝えている 」
はっ!そんな死因!心臓が悪かったのは事実らしいのだけど、このエピソードはビリー・ワイルダーによる作り話説もあるらしい。その場にいた人しか、そんな状況わからないものね・・。
 
 
Leaving Lubitsch's funeral, Billy Wilder ruefully said, "No more Lubitsch." William Wyler responded, "Worse than that. No more Lubitsch pictures."
ルビッチの葬儀の帰り道、ビリー・ワイルダーが「もうルビッチはいない」と言ったら、ウィリアム・ワイラーが「もっと悲しいことに、もうルビッチの映画は生まれない」って答えた。フィルモグラフィーをコンプリートするのが夢だけど、いつか達成する頃には私も同じ気分になりそう。
 
 
ドイツ時代について、こちらの素晴らしいサイトを何度も読ませていただいていた。女性が圧倒的に強い女系家族に育ったから、ルビッチ映画の女性はみんな強い説、興味深い。
 
 
 
 
待望の「ルビッチ・タッチ」、なかなかのお値段なので、凶器になりそうな(もしくは漬物石になりそうな)重さの大書を希望。毎日読んでるのに何か月たっても読み終わらないボリュームを期待。ルビッチ検索をすると、写真群の目力の強さにいつも負けそうになるので、今日のルビッチ写真は圧が弱めの1枚を選んでみた。
 
 
 
映画本といえば、フィルムセンターの次回展示、レクチャーも多そうで楽しみ。
 
 
 

2015-03-10

Chinatown

 
 
2月に観た映画で、記録してなかったもの。六本木ヒルズで。午前10時の映画祭で、ロマン・ポランスキー「チャイナタウン」を観た。74年の映画。30年代のLAを舞台に水道利権に絡む殺人事件にジャック・ニコルソン演じる私立探偵が巻き込まれるサスペンス。DVDでしか観てなくて、小さな画面だと入り組んだ話の筋を途中で見失いがちだったから、やっぱりスクリーンは助かるなぁ。ごくまれに予想もつかない真実にどんでん返しで辿り着くようなサスペンスに出会うと、よくできてるな…と感心はするけど、真実とは何?真犯人は誰?を追うことにたいして興味がない私が期待するのは、事件を生むような不穏な空気に浸り、謎めいた登場人物たちに出会うこと。
 
 
マイ・ベスト・ジャック・ニコルソンは「ファイブ・イージー・ピーセス」のつもりだったけど、スクリーンで隅々までディティールを観ると、断然「チャイナタウン」かも!と思えてくる。30年代ファッションで洒落のめしたジャック・ニコルソンの、せっかくの仕立ての良いスーツに容赦なく血が滲み、水浸しになるのをコーヒー飲みながら朝10時から眺めるのは、なかなかオツなものであった。
 
 
 
 
 
そして時代を感じさせるアーチ状の細眉のフェイ・ダナウェイ。夫を亡くして途中から未亡人ルック、黒ずくめになるのがモノトーン好きの私には眼福。特にこの場面、深いVゾーンにぴったり沿う長さのパール、好み!
 
 
 
 
30年代のLAはまだまだ未開の地、という印象のワイルドな街で、現在の発展に至るまで、どれだけ「チャイナタウン」的な表沙汰にならない黒い利権争いがあったのだろうか…。ジャック・ニコルソンが鼻を切られる有名なシーンばかり記憶に残っていたのだけど、鼻を切る小柄な男、ポランスキー本人だったのね。ポランスキーはこの映画に乗り気ではなく、撮影中もポランスキーのせいでトラブル続きだったらしいけれど、むしゃくしゃすること多いけど俺が鼻切るもんね!って、もしやストレス解消的出演…?なんにせよ、映画のおいしいところを監督がさりげなく持って行っている。
 
 
 
 
暴力もクールに処理されたサスペンス、さりげなく凝った衣装、薄幸の女。チャイナタウンでの古傷が癒えぬまま、新たな傷が上塗りされる。観終わってみて思ったこと。ああ、これは男好きのする映画というか、男のロマンというか、この映画を特別に好きな男性はきっと多いのだろうな…。ヤクザ映画を観た後、肩で風切って歩いてしまうように、観終わった後、俺はまた大切な女を失ったよ…チャイナタウンで…ってニヒルに落ち込むジャック・ニコルソン気分がしばらく抜けなかった。女だけども。


4月の終わり、早稲田松竹でまた上映されるみたい。まだ発表されてない併映は、たぶんポランスキー特集で、「毛皮のヴィーナス」では?

 

 

2015-03-09

Titicut follies

 
 
 
書いてない映画について頭が働くうちに記録しておかねば。2月半ば、フレデリック・ワイズマン特集最終日に観た「チチカット・フォリーズ」は1967年の映画。ワイズマンの強烈な処女作。
 
 
精神異常犯罪者を収容したマサチューセッツ州立ブリッジウォーター強制院の内部に3ヶ月密着したもの。冒頭、収容者たちによる演芸会の場面で始まる。院長と思われる恰幅のいい男性が進行しているのだけど、この男性の表情が顔面神経痛のような不自然な動きを見せて、おお…表裏がありそうな人相…と斜めから見てしまい、斜めから見てしまうのは自分の心が斜めになっている故かもしれず、そしてワイズマンは何も説明しないスタイルを処女作から確立していた。
 
 
収容者たちがほぼ裸なのは何故なのか。衣服を着ると何か不都合でも…?そしてスタッフたちと一緒に入浴や食事など日常のルーティンを終えると自分の部屋に戻っていくのだけど、部屋の中には家具ひとつない。コンクリートのような寒々しい素材の床のがらんとした部屋で、収容者たちはぐるぐる歩き回るだけ。裸で。酷い扱いを受けているように思えるのだけど、スタッフたちがあまりにナチュラルな動きと表情で収容者たちを扱うので、やがて感覚が麻痺してくる。
 
 
67年、映画祭で上映されてから、抗議の手紙により裁判所より上映禁止処分を受け、処分は91年に判決が翻るまで続いた。猥褻以外の理由で上映禁止処分を受けた唯一のアメリカ映画とのこと。
 
 
 
 
収容者が亡くなると棺に入れられ火葬場に送られる。亡くなったのは、冒頭、丸太を洗うような手つきで入浴させられていた収容者だったはず。棺を運び出すとき、スタッフの男が一瞬、目を押さえる仕草を見せたのを確認すると、なぜかホッとした。映画は最初と同じ、演芸会の場面で終わる。いま観たものは素敵なショーでした。と言いたいのだろうか。ワイズマン、透明な位置にカメラを置きながら、しれっと作為を忍ばせるので気が抜けない。
 
 
上映前のロビーは、こんなに混んでいるシネマヴェーラ、お目にかかったことがない人波で、立ち見もびっしりの盛況だった。最後、収容者たちの待遇はその後改善された。と、言い訳みたいなテロップが出たときは、満員の場内からどよめきが起こった。

 

2015-03-08

The lesson

 
 
シネマート六本木で。東京国際映画祭アンコール上映会のラストは、ブルガリア映画「ザ・レッスン/授業の代償」。学校の先生が銀行強盗をするまでの経緯が丁寧に描かれる。実際に、ブルガリアで学校の先生が銀行強盗をした事件が数年前に起き、新聞で事件を知った監督が想像を膨らませたフィクションなのだとか。
 
 
 
 
あらすじ程度は頭に入っていたので、冒頭、「私は財布を盗まれました」と黒板に英語で書くシーンから始まってドキドキ。ラストも黒板のチョーク音で終わったけど、何を書いたかは映されず暗転した。
 
 
去年、映画祭のコンペでは「紙の月」とこの映画が、世間的には堅いイメージの職業に就く女性が犯罪に手を染める物語で共通しているとし、そんなこと想定してなかったのにカブってしまった!ということだったけど、両方観てみても、似てるのは設定の部分だけで随分違う物語だな、と思った。「ザ・レッスン」、教師が銀行強盗するのは家賃を支払わないと強制立ち退きにあう追い詰められ方で、その対処法として教師は無私な動きを見せる。その意味では「紙の月」とは欲望のベクトルは真逆。
 
 
ただ、どちらの映画も主人公の抜き差しならない悩み…「ザ・レッスン」は金銭問題、「紙の月」は空虚感と贈与欲求にそれぞれの夫がまるで助け舟を出してくれず、脅威の鈍感力を発揮するところは共通していた。「ザ・レッスン」、ブルガリアでは教師の報酬は低いのか翻訳の副業までしても生活は困窮してるのに、夫、働きもしない…。なのにサラ金に手を出した妻に「あいつらがどんな奴らか知ってるのか!内臓までとられるんだぞ!」と感情的に騒ぐシーン、ちゅうかお前も働けよ!と冷たい目で画面を眺めてしまった。その後のトークで、映画祭のティーチインで夫の存在について質問した際は、主演女優が「あれは私の実際の夫で、ブルガリアでは私よりずっと有名な俳優なのよ!」と答えたきりで、何故、夫が働かず、妻も愛想を尽かさないのか、という疑問については答えがなかったらしい。
 
 
しかし2本の映画、主人公はどちらも先を読む能力はやや欠如しているものの、ひとつひとつの決断は己の幸せを求めて最上の選択をしたと信じ込んでいるに違いなく、ボタンのかけあわせひとつで人生は大きく狂うのね…くわばらくわばら…と思った。
 
 
上映後のトークでは「紙の月」の吉田大八監督が登壇され、矢田部プログラミングディレクターに「似た映画選びやがって…」と事あるごとにつっかかる的ジョークが楽しかった。観客のみなさんで、両方観た方から感想を…というフリには「そんな怖いことやめましょうよー」とおっしゃっていたのがお茶目だった。
 
 
私の貧困なイメージではブルガリアといえばヨーグルト程度のイメージしかないのだけど、学校の食堂のような場所で、教師が買う瓶に入った白い飲み物…飲むヨーグルト…?おお、ブルガリア!それ、飲みたい!と思ったのだった。

 

2015-03-07

これがエンタテインメントだ

 
 
「フレッド・アステア」で図書館在庫検索したら、「スターリング」「永遠のMGMミュージカルオリジナルサンドトラック集」そして「おもしろ音楽大集合④ これがエンタテインメントだ」の3件ヒットして、たぶん「スターリング」がオーソドックスで正解なのでは、と借りてみたら確かに大正解だったのだけど、他の2枚にも興味がわくというもの。借りてみたら、「永遠のMGM…」はA面は全曲「雨に唄えば」からの名曲集で大当たり、そして「これがエンタテインメントだ」のほうは、おもしろ音楽大集合④の名前に違わぬ珍品だった。


とはいえ、1曲目はアステア&クロスビー、ディートリッヒも入ってる。それだけだと王道なのだけど、B面最後、大トリの一曲「ブラック・ストラップ・モラシス」、ジミー・デュランティ、ダニー・ケイ、ジェーン・ワイマン、そしてグルーチョ・マルクスがソロパートあり、合唱ありで歌う。楽曲説明にも「珍共演」と書いてある謎の一曲だった。たしかに「おもしろ音楽大集合」、 これが④だとしたら、①〜③はどんなだったのか。⑤以降は存在するのか…と、考え始めると止まらず、すかさず図書館在庫してみると⑤まで在庫があった。文京区恐るべし。まずは王道のジャズやクラシックをひととおり聴いてみるつもりなのに、珍品へのよそ見が止まらず、ニッチな楽曲にばかり詳しくなってしまいそう…。