CINEMA STUDIO28

2015-05-31

4月の終わりの京都 / 立誠シネマプロジェクト

 
 
 
GWは早めに休みをもらって、さっさと東京脱出。普段の映画活動を京都で。到着後、お昼を食べ、速やかに最初の映画館へ。木屋町あたり、高瀬川沿いにある旧・立誠小学校。93年に廃校になった小学校が再活用されている。3階に立誠シネマプロジェクトが運営する映画館あり。
 
 
 
 
 
 
 
 
学生時代、既に廃校になっていたここの校庭で、ファッションショーか何かを観た記憶が・・・。
 
 
 
 
 
 
映画のプログラムはミニシアター的ラインナップ、
特に日本の若手監督の紹介に力を入れているとのこと。
 
 
 
 
 
 
1階。「映画原点の地」とあるのは、サイトによると1895年に発明されたリュミエール兄弟のシネマトグラフが、その2年後、1897年にパリから日本へ輸入されます。「最初の映画」であるとされるシネマトグラフが日本で初めて投影されたのが、ここ元・立誠小学校の地。当時は京都電燈(現・関西電力)があり、その場所で日本初の「映画」の試写実験が成功したことから、日本映画原点の地とされています。」とのこと。

 
 
 
 
 
 
立誠小学校の卒業写真展、というのをやっていて、これが一番古かったかな。明治30年度の卒業生全員。校舎の建物は昭和3年(1928年)に建てられたらしいので、古い校舎に通ってた人たちかな。
 
 
 
 
 
 
学校の名残が・・。というより、学校そのもの。
中に入るのは初めてだったけど、思った以上に学校そのものだった!
 
 
 
 
 
 
 
卒業生の記念制作っぽいの。
下にある、模擬店ののぼり、みたいなのは昔、
学校で使ってたものがそのまま置かれてるのだろうか・・。
 
 
 
 
 
 
 
 
廃校なので、基本的にどこも水道は通ってなくて、
唯一、1階にあるトイレだけ使えるみたい。
映画館は3階なので、映画の途中にちょっとトイレ・・・という感じでは中座しにくい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
気の済むまで1階探検したので、いざ階段を上がる。踊り場に映画のポスター。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3階に到着するとシネマの看板。
 
 
 
 
 
 
 
 
目に映るものが興味深すぎて、なかなかシアター入口に辿り着けない・・・。
これは、電話・・?
 
 
 
 
 
 
 
 
自分の影が映ったので、撮りながら、
この世にはきっと shadow selfie という言葉があるに違いない。
と考えて、調べてみたら案の定、あった。
 
 
 
 
 
 
 
いざシアター入口へ。関西圏の映画館のフライヤー多し。
デザインの綺麗なものをいくつかもらった。
 
 
 
 
 
 
 
 
これは映写室の入口だったかな。
 
 
 
 
 
 
 
 
チケットを買い、ロビーでのんびり。窓際にソファもあった。
うちの部屋にあるソファに似てて親近感。
 
 
 
 
 
 
 
 
チケットも何もかも、手作り感たっぷり。
 
 
 
 
 
 
 
 
日本映画に力を入れているとのことなので、「おんなのこきらい」を観たかったのだけど、時間が合わなかったので見逃していた「ONCE ダブリンの街角で」を観た。この物語はどうやって閉じるのだろう、と思っていたら、そこで終わるのか・・・というところで終わった。おそらくこの映画は、映画に流れる音楽、歌にぐっとくる人には特別な映画になるのだろう。私はわりと映画に流れる音楽について不感症気味で、物語を語るための道具として音楽が大きな比重を占める映画がわりと苦手、ということに最近気づいた。
 
 
 
 
 
 
 
 
上映室は座席は50席ぐらいかな・・?廃校の再利用ということで、映画用に作られた場所ではないので周囲の音など気になるかな・・と思ったけど、気にならず、なかなか観やすくて集中できた。周囲にレストランや喫茶店、駅も近いし、京都の映画館の中でも特にアクセスのいい場所にある。今、自分が京都にいたらかなり通うだろうな。

2015-05-30

光陰的故事





3月?4月?イメージフォーラムで。エドワード・ヤン「恐怖分子」公開にあわせて「光陰的故事」も上映された。1982年の台湾映画、4人の若手監督がそれぞれ1話ずつ担当したオムニバス映画。一話ごとに60年代→80年代と過去から現代に近づき、主人公も小学生、中学生、大学生、若夫婦と年を重ねる。2007年、東京国際映画祭でのエドワード・ヤン監督追悼上映で初めて観た以来の観賞。



第1話「小恐竜」(監督:タオ・ドゥーツェン)、小学生の男の子の学校・家庭生活。60年代の台北の風景なのか、物語の舞台になったエリアが郊外なのか、高層ビルがなく、のどかでレトロな家庭風景。母親の着ているチャイナドレスが、ざらっとした木綿ぽい素材で生活感を漂わせながらチャイナドレスの色気もあって素敵。友達が北京でああいうのを仕立てたと話していたので、私も仕立てたい。映画の感想になってないけど・・。



第2話「指望」(監督:エドワード・ヤン)、中学生の女の子。遊び人らしきお姉さんがいる。母子家庭なのか、家の中に女しかいない。家計のため、離れの部屋を大学生の下宿として貸しているらしく、そこを爽やかな大学生男性が借りることになり、女系家族のバランスが崩れていく。画面の中心に少女をとらえたアップのショットから物語は始まり、同級生だけど女の子のほうが背が高くて、男の子は小さくて、衣服もぶかぶかで自転車に乗れなくて練習しているのだけど、そのうち少年はあっという間に背が伸びて、声も変わるのだろう。

第3話「飛蛙」(監督:クー・イーチェン)、大学生の男性。寮のような場所にみんなで住んでいて、大学対抗?のような謎のスポーツの勝利に向けて燃えている。最後のスローモーションといい、すっごく変な映画観た!って2007年観た時に思って、今回もやっぱり、すっごく変な映画観た!って思った。



第4話「報上名来」(監督:チャン・イー)、団地のような建物に引っ越してきたばかりの若夫婦。共働きで、妻が先に家を出て、夫は新聞を取りに玄関まで行くのだけど、オートロックっぽい扉が閉まってしまい、パンツ一丁で路上に放り出される。建物の壁面をよじ登るパンツ一丁の男のイメージが脳裏にこびりつき、今回「光陰的故事」を再見する前、どんな映画だったっけ・・って遠い記憶をたぐり寄せてみた時、第3話のすっごく変なラストシーンと、第4話のパンツ一丁でうろたえる男のイメージが真っ先に思い浮かんだ。私の脳は変なイメージほど深く記憶に定着するのだろうか。








4つ並べて観てみると、確かにエドワード・ヤンの第2話が圧倒的に完成度が高いのだけど、残り3作の荒削りながら台湾の都市生活者や、ノスタルジックな少年時代を扱った作品もそれぞれに見どころがあって楽しいオムニバス。エドワード・ヤン「指望」は制服を着た少年少女、小柄な少年・・・などの登場人物や撮影のトーンに、その後のクーリンチェ少年殺人事件に繋がる芽を感じさせるところもあって、改めてクーリンチェを観たくなった。「恐怖分子」リバイバルの次は、クーリンチェリバイバルの奇跡、願わずにはいられない。

 

2015-05-29

Andalucia





4月に観た映画。メゾンエルメスの月間プログラム「アンダルシア」。アラン・ゴミ監督。2007年の映画。



http://www.maisonhermes.jp/ginza/movie/archives/8029/



フランス人で移民の子でもある主人公・ヤシーヌのパリ内外でのそぞろ歩きを追う、詩のような映画。狭い、トレーラーハウスのような、コンテナのような場所に暮らしながら、その暮らしはその瞬間のもので、会ったばかりの女と夜を共にしたり、あてどなく街を歩いたり、広告写真の女に惹かれたり、その女に出会ったり、移動距離、過ぎた景色、人と出会って別れること、あらゆることを会ったそばから過去のものにしながら、青年は方向も決めず進んでいた。もらったブックレットによると、フランス系セネガル人が脚本と監督を務め、フランス系アルジェリア人が主役を演じる「二重の文化のもとに生まれた作品」とのこと。


歩みの先にアンダルシアに足を踏み入れたヤシーヌは、自分の顔が聖人(?)そっくりであると知る。街ですれ違う人々が一様に、あまりに似ていることに驚いてざわめくほどに。自分の中の2つの相反、矛盾について歩きながら考えたり忘れたりしていた彼が、パズルの最後のピースをアンダルシアで見つけたかのように、空に向けて歩き出すラストが爽快。



エルメスの今年のテーマ「フラヌール いつでも、そぞろ歩き」にぴったりの映画で、2月に観た「眠る男」も、この「アンダルシア」も、街をうろつく青年を追いながら、物語には落としどころが必要、ということなのか、彼らが最後には何かしらかに到達する姿が描かれて終わったこと、について考える。そぞろ歩きにも内面の思索にも、必ず終わりがある、人生でそのような季節があったとしても、必ず終わりがあって次の季節が始まる、ということを。



5月の「イージー・ライダー」は予約していたけれど仕事都合でキャンセル。今年のプログラムを制覇するつもりだったので残念。読むことを楽しみにしているブックレット、余剰があるようであれば6月に行った時に手に入れたい。6月のプログラムは「都会のアリス」とのこと。

2015-05-28

SHOAH





3月に遠足みたいに1日分の食事・飲み物・おやつを持参してイメージフォーラムに篭って一気に観たドキュメンタリー「SHOAH」についても書いてなかった…!半日ずっと映画を観た以上の体験だったのでこのポスターにある"THE FILM EVENT OF THE CENTURY"の言葉には異論なし。FILM EVENTという言葉がぴったり。





意を決してこの映画を全部観ようと思ったのは、去年「イーダ」を観たから。フレームの外にホロコーストの記憶を絶えず匂わせながら「イーダ」では直接的に語られることがなかったので、逆に正面から捉えたものを観たくなった。予備知識を何も仕入れずに、ホロコーストの真実に迫ったドキュメンタリー、というだけの理解で観たので、もっと「閲覧注意」っぽい目を背けたくなるような映像かと思っていたら違って、むしろそのような資料を使うことを意識的に避け、それぞれの人生で何らかの形であの収容所にまつわる経験があった人々の、淡々とした証言を繋いで映画は作られていた。


ドキュメンタリーは慎重に選ばないと、上映時間中ずっと感情的な人の起伏につきあわされて疲労困憊するはめになる。「SHOAH」はその点フラットに撮られているように思えたけれど、時間の長さゆえなのか、後半に従って徐々に監督の視点に疲れていった。特に第3部、第4部、淡々としたトーンが静かに変化し始め、徐々にカメラは被写体を追い詰め始める。辛い記憶を思い出したくない、と涙ぐむ人を、語ってください、と追い詰めるのは、これが歴史的な証言で、記録する価値があり、多くの人が真実を知ることを望んでいる。という大義のようなものゆえだと思うのだけど、その大義はやはり、監督が自ら設定した大義であって、私が徐々に感じた不快感はそのためだったのだと思う。誰かが、己の知りたい欲望を叶えるべく撮った映像を、私の知りたい欲望を叶えるべく観て、不快に思うなんて勝手だな、と思うあたり、私の思うドキュメンタリーの厭らしさがゴリゴリっと含まれた映画で、その点では観て良かった。


第4部に差し掛かった時、第4部を観るために第3部までの長い時間を耐えたのだな、と思ったけど、肝心の第4部、さすがに集中力が途切れてしまい記憶が薄いので、再見する機会がまた巡ってくるなら第4部だけ取り出して観てみたい。

2015-05-27

Aimer, boire et chanter




映画を観たメモ、何を書いてないんだっけ・・・と振り返ってみたら、3月に観たこの映画も書いてなかった。あれから2ヶ月、何をしていたのだろう・・(遠い目)。


わたわたした時期、この映画を意地でも観に行ったのは、私にしては珍しく前売りを買っていたから。前売りを買った理由は、岩波ホールの割引システムは強固な壁があって、前売りが一番リーズナブルだったから。そういう理由で、よほどのことがない限り、行かない映画館。


アラン・レネの遺作「愛して飲んで歌って」。





余命わずかな男・ジョルジュを巡って、女たち、女のパートナーである男たちが翻弄される。彼女たちのセリフを通してジョルジュの存在は感じられるのだけど、ジョルジュはスクリーンに登場しない。ジョルジュの葬儀の場面で終わり、最後に遺影でついにジョルジュの顔が?と思いきや、死神の絵が映されて終わったので呆気にとられた。アラン・レネのフィルモグラフィ、最後のシーンが葬儀、ラストショットは死神か。でもシリアスさはまるでなく、戯曲を映画化したためか書割の背景の前で人々は演技し、これはリアルではありません、虚構です。と宣言しながら物語は進む。マリエンバートではない場所でマリエンバートを語り、広島で何かを見た何も見ていないと語り、アレン・レネはいつも、そこにない景色、そこではない時勢を語っていたではないか。そこにいないジョルジュはスクリーンのこちらにいる自分かも、カメラのこちらにいるアラン・レネかもしれず、また誰でもないのかもしれない。


晩年の映画「風にそよぐ草」を観た時は、アラン・レネも老人性暴走が始まったのか・・と呆然としたのだけど、遺作の暴走具合はあの映画ほどではなくマイルドだった。観終わって、人は最後まで、自分の視点から逃れられないのだ、と思った。すべては本当で嘘かもね、だから愛して飲んで歌って。と歌いながら自らをまっとうし、自らの手で自らを葬ったアラン・レネの映画人生の閉じ方は、見事だった。

2015-05-26

Way down east






アンモナイトのように見える景色は、古いプラネタリウムの天井。4月、王子にある「北とぴあ」という施設のドームホール。ここは何・・?とたくさん?マークが頭にちらつきながら中にいたのだけど、帰宅して調べてみると「北区の産業の発展と区民の文化水準の高揚」を目的として建てられた施設とのこと。バブルの残り香・・・?もしくは昭和遺産・・・?など妄想していたのだけど、意外にも1990年にオープンしたらしく、平成生まれだったことに軽く衝撃。あちこち傷んでいたし、とても古い場所に居る気分しかしなかったのだけど、メンテナンス不足ゆえか・・?







ドームホールはかつてプラネタリウムだった場所のようで、ドームも、椅子などもその名残を残していた。壁面がまっすぐじゃないので見づらいかな?と思ったけど、そんなこともなく、高さがあるので画面も大きい。いつぶりかわからないほど久しぶりに、活弁つき上映。弁士はハルキ、という女性。人生で初めて観た活弁映画も、グリフィス×リリアン・ギッシュ「散り行く花」という奇遇。たしか京都みなみ会館で、弁士は澤登翠さんだったように思うのだけど、なにしろ記憶が遠い。






「東への道」は1920年のサイレント映画。騙されて子供を産むはめになったリリアン・ギッシュが当時、未婚の母はとても肩身が狭かったらしく、そのためにあちこちで蔑まれ、子供も亡くし、ズタボロになる。しばらく身を寄せていた家をその過去ゆえに追い出され、吹雪の夜に飛び出す。流氷の上に横たわり、もうダメか・・・と観客の誰もが思った瞬間、グリフィスらしいラスト・ミニッツ・レスキューが訪れる。



この映画は過去に一度、サイレントピアノ演奏つきで観た。教会での上映で、震災のあった年の終わりだったから、乗り越えて最後に救われる、そんな映画を選びました、という上映だった。



流氷の上に横たわり、流される場面は、そのままロケで撮られている。リリアン・ギッシュの身体が半分、冷たい水に浸かる場面も、そんな状況で撮られたもので、あと少し撮影が長引けば命の危険にさらされる、過酷な撮影だったらしい。



私の近くの席に、80歳?90歳?ほどと思われる老婦人が座って観ておられ、「東への道」が日本でいつ公開されたのか知らないけど、もしかして若い頃に観た思い出の映画なのかな。「八月の鯨」のリリアン・ギッシュを連想するような、可憐な印象の老婦人だった。ハルキさんの活弁は、まさに七色の声色。人間の声の可能性たるや。人物が最初に登場する時、役名と俳優名を同時に説明するくだりがあったので、これなら俳優名を覚えられるね・・!と思ったけど、時間が経った今、やっぱりリリアン・ギッシュの名前しか記憶に残っていない。

2015-05-25

Birdman or(The unexpected virtue of ignorance)

 
 
4月、日比谷シャンテで。オスカー総なめの「バードマン」を観る。エマ・ストーン好きなので楽しみにしていた。
 
 
 
 
ジャズのCDなど再生してみて、1曲20分なのか…と思う時のように、観終わってみると「バードマン」、1曲120分なのか。って長い1曲を聴き終わったみたい。最初はぼんやり眺めていたけれど、リズムが身体に入ってきてからは一気にスクリーンに飲みこまれた。六本木ヒルズのスクリーン7のような大スクリーンでかかってる時に観ればよかった、と少し後悔。映画を観ていてもあまり音楽が耳に入らない傾向にあるのだけど、音楽が好きな人は自分とは世界の見方が違うのだろうな、と想像することはよくある。私の見方では音楽は映画に寄り添ったり強調したりするものと思っているけれど、この映画の音楽は主従逆転して音楽の上に映画が踊ってるみたい。
 
 
かつてアメコミもののヒーローを演じた落ち目の映画俳優が舞台に挑戦するにあたって選んだのがレイモンド・カーヴァー。カーヴァー自身のアルコール依存など激しめの側面は、そのままバードマン俳優とその娘のキャラクターに振り分けられ、主要キャストのほとんどが他の映画でアメコミ大作もののヒーロー・ヒロインを演じた経験がある、というなんとも含みのあるキャスティング。映画を構成するすべてが地層のように意味を持って積上げられており、そのまま食べても、剥がしながら食べても美味しい。
 
 
エマ・ストーンの役柄は普段のイメージからは挑戦的に思えるけど、素行や仕草の根っこに、いい子感を匂わせるのはエマ・ストーンならでは。肩のタトゥーはラストシーンで彼女が見上げる、空を舞う鳥の柄だったように記憶しており、ああ、なんだかんだ言いながらもバードマン、大好きなんだね。


劇場のバルコニーでのエドワード・ノートンとのこの会話。何が欲しい?と、ちょっと色っぽく尋ねたエマ・ストーンに、お前の眼をかっぽじって俺の頭蓋骨に埋め込み、その若い目でこの通りを観てみたい。って台詞、この映画で一番好きな台詞だった。あがく中年男たちが失ったものが洋服着て跳ね回ってるようなエマ・ストーン。
 
 
 
映画と演劇の対立もベースにあって、最後のシークエンス、舞台上でのバードマンの一件は、複製芸術である映画の担い手だったバードマンが、明日も明後日も舞台に立たなければならない非・複製芸術(アウラ・・・)の作法を知らずに、バードマンとしての自分を未整理のまま舞台に立ってしまったがゆえの見切り発車、という印象。それが閉塞した演劇の世界に風穴を開けた、と好意的に評されるのもシニカルな話。バードマンの斜め上1mあたりにいる見えない誰か…神?…鳥…?の視点で、まるでワンシーンワンカットのように、現実のように見せかけながらも、考えてみれば冒頭は空中浮遊するバードマンの背中から始まったのだった。最初から虚構なのだ。映画は虚構。アカデミー会員たちがこの映画に盛大に票を投じたのは、よくできた虚構を作り込むために身を削る、映画の世界の住人たちの、映画万歳!という叫びが聴こえるみたい。

2015-05-24

Mes seances de lutte

 
 
しばらく映画館が遠くなる時期なので、観たけれど書いていなかったものをメモしておく。4月、ルビッチ特集に突入する前、観たいものリストを着々と消していったうちの1本、ジャック・ドワイヨン「ラブバトル」。2週間限定公開のせいか、朝の回でもなかなか混んでた。
 
 
目にしていたポスターなどが激しい性愛ものを連想させたので、うららかな春の週末、朝イチからこれを観るって…と思ったけど、観終わってみるとそれほど激しくもない。家族、特に父との関係に問題を抱えた女が父を失い、動揺する自分を立て直す過程に、男が向き合う。身体を使ってお互いを知り合うのはずいぶん終盤のことで、それに至るまで、男は徹底的に言葉を使って女に自分を整理させる。じたばたした女は男に飛びかかり文字通りバトル、取っ組み合いが延々と続き…横になり縦になり床で階段でテーブルの上でもつれ合う2人の動きは、振り付けのあるコンテンポラリーダンスのよう。小沢健二の何かの歌詞で、互いに覚悟決めたらくちづけを交わそう。ってフレーズがあったけど、そういう順番だったな。頭と心をきっちり整理してから、身体に進もうではないか!という。
 
 
女はサラ・フォレスティエ。何も話さず動かず、画面にただ映ってるだけでも、目が彼女ばかり追ってしまうような存在感の女優。対する男はジェームズ・ティエレという俳優で、これまで観たことなかったはず。チャップリンの実の孫なのだとか。言われてみれば少し面影があるような…。果たしてこれだけの理性を保つ男は、世の中にどれほどいるのだろう。この映画の女ほどではないにせよ、誰でもそれなりに持っているであろう女のめんどくささに、あれだけしぶとく向き合う男がどれだけいるのか。だからじっとバトルの行く末を見守っているうちに、やがてファンタジーにも見えてくる。ジェームズ・ティエレはサラ・フォレスティエの相手役として必要十分で、彼の佇まい、眼差しなくして成立しなかった物語に思えた。
 
 
 
 

 

2015-05-23

百日紅

 
 
百日紅と書いて、さるすべりと読むことを、この映画のスケジュールを調べ、チケット買う時なんと言えばいいんだろう?と、ふと思ってようやく知った。封切りされたばかりの別の映画を観るつもりだったのだけど、今週は春画からはじまる連想の日々だったので、そんな週末に観るのはこれが良いのでは、と考えた。観るタイミングによって吸収率は変わる。
 
 
葛飾北斎の娘、葛飾応為が主人公。映画の中では本名のお栄と呼ばれる。絵の才能があり、北斎の代筆をしていた説もあるらしく、映画の中でもそのような描写がある。さっぱりした性格ながら、片思いの男と歩く時には頬を赤らめたり、江戸の女というのか、興味深いキャラクターだったな。北斎の代筆で枕絵(春画)を描く場面もあり、色気のないお栄は、女を描くのは上手くても男は描けず誰かの模写のようになってしまう。男を知らないからだ、そもそも嫁入り前の娘にこんな絵を代筆させる北斎は…というくだりもあり、版元にそのように言われた帰り道、行った先のエピソードが面白い。
 
 
吉原は男の遊び場だけど江戸の街には男娼も存在して、男色趣味のお坊さんなどが入り浸る。男を知らないから男を描けない、と言われたお栄はすたすたと男娼のいるところに入っていく。実際、女もお客として出入りしていたらしい。
 
 
杉浦日向子の原作は短篇集とのことで、長篇映画に仕立てるためにお栄とその妹・生まれつき盲目のお猶のエピソードが長篇を貫く軸になっている。盲目の妹を連れて江戸のあちこちを散歩し、妹のために目に映る景色をひとつひとつ言葉で説明していた。北斎は「病人が怖いのか」と家族に責められるように、お猶にあまり近づこうとしないのだけど、台詞にあったように自分の描くことへの欲が、娘の視力や命を奪ってしまったという思い込み、罪悪感ゆえだったのかもしれない。
 
 
ここ数日帰り道、夜空を見上げると、刀で削ったような細い月がすっと浮かんでいて、時代劇みたい…と見惚れながら歩いていた。こんな都心ではなく、建物もなく夜空がちゃんと暗い場所に行けばもっと月を堪能できるのかな…と考えたけど、江戸の雰囲気も少し残る東京の下町の、自分の今いる場所こそこの月にふさわしいのではないかと考えを改めた。「百日紅」に描かれた江戸はたった200年前の景色なのに、高い建物はなく、電気も携帯電話もなく、娯楽も限られていて、こんな景色の上にあの月が浮かんでいたら、絵も描きたくなるというものだろう、と納得した。
 
 
 
妖怪や目に見えない何かを感じること…それらは恐怖心というより、娯楽のひとつのように描かれていたように思う。 短篇集を映画にしたためか、物語を通じての大きなうねりのようなものは控えめで、江戸の日常がスケッチのように淡々と映し出される。私は浮世絵を見ながら、興味を持ったことをキャプションをじっくり読み、説明と絵を往復しながら江戸の生活に思いを馳せるような気持ちでこの映画を観た。様々な題材の浮世絵を何枚か手にして、ぱらぱら自分のペースで静かに眺めているような気分にもなった。
 
 
媚びない性格のお栄はその後、絵師に嫁いだものの、夫の絵を下手だと言って不仲になり、離縁して北斎のもとに戻ったとのこと。北斎が大往生した数年後ふっと世間から消え、誰もその先を知らない、没年も墓も不明というあたり、死期を悟った猫がふっといなくなるようで、映画で描かれたお栄のキャラクターに似合った、さっぱりしたこの世からの消え方だな、と少し羨ましくなった。
 
 
 

 

2015-05-22

someone to watch over me

 
カンヌで上映されたらしいホウ・シャオシェンの新作、観たい。スー・チー、チャン・チェン主演!
 
 
 
わりと最近のではラモリスの「赤い風船」にオマージュを捧げた「ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン」、ささやかな映画ながら好きだった。オルセーがロケ協力していて、去年東京でも展覧のあったヴァロットン(大好きな画家!)の絵が登場する。その絵が映画にぴったりで…。レッド・バルーンが少年に付かず離れずの位置で寄り添うさまは、あの曲が流れるわけではないけれど、someone to watch over me...という感じ。またスクリーンにかからないかな。

 

2015-05-21

続・春画からはじまる連想

 
 
一昨日の日記の続き。
 
 
春画展のニュースから、「蛸と海女」、相米慎二「ラブホテル」と脳内で繋がった後、ふと春画展が開催される場所、文京区と書いてあったので近所かしらと調べてみると、椿山荘あたりにある永青文庫だった。行ったことがないので、どんな場所なのか調べてみると、こんな外観の場所で…
 
 
写真右下にある石の輪っかみたいなのは門?なのか、ここをくぐって入るようで、わぁ、鈴木清順の映画みたいな世界ではないか。振り返ってみると、あれは冥土の入口だったのですね。とでも言いたくなる場所、と妄想した。
 
 
春画、永青文庫のこの外観…から、連想はすぱっと「陽炎座」に飛び、あの映画の中での不思議な場面を記憶の限り詳細に脳内上映してみた。物語の舞台である金沢の邸宅で、洋装の男たちが集まる。すっと手首に剃刀をあて、軽く血を流してはその香りを嗅ぎ、おもむろに人形を持ち底から中を覗き込む。覗き込むと男女交合の場面、春画の立体版のような人形が、外からはそうとわからない普通の土人形の中に仕掛けてあるのだ。人形の中を覗き込む秘密の会合で、覗き終わったら人形を床に叩きつけ割って、土に返す。
 
 
泉鏡花の原作にこのような場面があるのかどうか、読んでいないので知らないのだけど、あれは鈴木清順監督の創作なのだろうか、それとも現実にあのような会合がこの世に存在するのだろうか。
 
 
これまで妄想するだけで調べもしなかったのは何故だろう、と、ふと「人形」「春画」「覗き込む」など適当なキーワードで調べてみると、深沢七郎「秘戯」という一篇が、博多人形の裏返しを題材にしたもので、読まれた方が映画「陽炎座」との関わりについて書いているのを読んだ。同じことを考える方がいらっしゃるのですね…書き残しておいていただいて、助かる…。
 
 
ちょうど帰りの電車で調べていたので、ついでに図書館の在庫検索をしてみると、最寄りの図書館に文庫があることを知り、その足で借りに行く。便利。「みちのくの人形たち」という短編集に収録されている。
 
 
深沢七郎自身がモデルなのかな?と思われる己の死期を悟った主人公が、息子や知り合いの編集者と共に、かつて暮らした博多を訪れる。かつての仲間が集まり、水炊きでもてなされるのだが、食事の前に「博多人形の裏返し」をみんなで執り行う。それはもう執り行う、と言いたくなるような儀式めいた緊張感漂う描写だった。
 
「この人形を見るには、昔は ー おそらく江戸時代からだろう、見る者も、見せる者もカミソリで腕を切って、血を啜るしきたりだった。あのころは、そういう形式は略されていて、ただ、手に傷をつけるだけだった。」
 
 
40年前はそれで生計を立てていた男もいたようだけど、描かれた再会ではそれぞれの男たちは別に職業を持ち、金銭のために人形を作ってるわけではないようだった。作り、血を啜り、鑑賞し、割って土に返して後に残さない。血を啜るのは、そんな世界に足を踏み入れた者同士の誓いのような意味合いがあるらしい。これを読んでも、これらの一連が深沢七郎の創作なのか、描かれたとおり江戸時代から伝わる土着の風習のようなものなのかはわからなかったけど、きっと創作ではないのだろうな。小説は参加者は人形を作る側でもあったので、作る人独特のストイックさが漂っていたけれど、映画での参加者は収集家、愛好家、といった風体で、小説よりはるかに享楽的だった。
 
 
小説では血を啜る、と書かれていたので読みながら口の中に血の味が広がったのだけど、映画では啜るではなく、匂いを嗅いでいたように記憶しているけど、記憶が遠いのではたしてどうだったか。あの場面を観た私は、己の血の匂いを嗅いで、ちょっとした酩酊状態をつくりだし、軽く酔った目で眺める人形の裏は、まさに夢と現を行き来するような味わいがあるのではないか、と考えていた。映画では様々な会合、集い、パーティーを目にしてきたけれど、どれかひとつ選んで自分が参加して良い、と言われたら、「陽炎座」の金沢の、あの秘密めいた集いに参加してみたい。女人禁制なのだろうか…。
 
 
6月に早稲田松竹で「陽炎座」が上映されるようなので、久しぶりに観ようかな、と考えたところで、春画からはじまる連想は頭の中で行き止まりになった。深沢七郎の小説がさっと読める短さで助かった。なかなか読み終わらない長編だったら、こんな連想がいつまでも続いていよいよ生活に差し支える、と危惧されたところ。

 

2015-05-20

Gone girl

 
 
週末、体調が優れなかったので、さっと映画を観てさっと帰るコース、第2弾はギンレイホールで「ゴーン・ガール」。とても楽しみにしていたので封切り後すぐに観て周囲に薦めまくり、絶対2度目を観ようと思っていたのでギンレイにかかって嬉しい。
 
 
2度目、冒頭4割ほどのベン・アフレックぼんやりターンでは気分が締らず(たぶんベン・アフレックのせい)、もしかして2度観るほどの映画ではない…ということか…?と思い始めたら、妻・エイミーのターンに切り替わりそこからラストまであっという間。やはり完全にロザムンド・パイク映画で、ベン・アフレックについては映画の内容と同じく、相手に不足なし。という感じ。またそのバランスが映画に合ってて…。
 
 
デヴィッド・フィンチャーのキャスティングの上手さを讃える映画。ロザムンド・パイクは、トム・クルーズと共演した「アウトロー」という映画のジャパン・プレミアで来日していたのを、たまたま招待していただいて観た時にトムの添え物のようなポジションで壇上に上がったのを観たのだけど、監督よりトム・クルーズより、断然ロザムンド・パイクかっこいいね!という本人の印象が、「アウトロー」の中では発揮しきれていない消化不良感があって、この人が水を得た魚のように活躍する映画を観たいなぁ・・と、頭の隅に残っていたのが「ゴーン・ガール」で達成された気分。
 
 
ベン・アフレックについては、「アルゴ」を観た後も特に思い入れのない俳優だったけど、テレンス・マリック「トゥ・ザ・ワンダー」を観た時、脇役陣の手堅さに比べて主演の2人、ベン・アフレックとオルガ・キュレリンコの存在がちょっと弱い気がして、しかしその弱さが霞のように儚い映画に似合っており、ベン・アフレックの空洞っぽさを上手に利用したキャスティングだな、と思ったのだけど、「ゴーン・ガール」はその期待の遥か上にあった。ちょっと自分で自分をネタにしているようなキャスティングだけど、ベン・アフレックはこの役についてどう思って演じていたのだろうか。ベン・アフレック本人はベン・アフレックらしさとは何か、について自覚的なのだろうか。その昔、ベン・アフレックといえばグウィネス・パルトロウやジェニファー・ロペスなどなど、自己顕示欲の強そうな女性とばかりつきあってる印象があって、ベン・アフレックの魅力はよくわからないけど、そのような女を引き寄せる誘蛾灯のようなところが実物にはあるのだろうな…と、想像したりもしていて、その点でも「ゴーン・ガール」は期待を裏切らなかった。まことに正しいベン・アフレックらしさが十二分に発揮されていた。ハリウッド中探してもこれ以上似合う俳優はいない、という2人が主演しているだけで観ていてなんと気持ちの良いことよ。
 
 
2度目はさすがに最初見えなかったところがよく見えて、3度目も観たいぐらい。この先きっと何度も観ることになるのだろう。親が創り上げたアメイジング・エイミーが、実物はアメイジングとは乖離があったけれど、自分の力で別のベクトルのアメイジング・エイミーに成っていく過程、夫を巻き込みながら親に復讐するかのように自我に目覚めていく過程は、女の自立ものでもある。小説でいえば鴎外「雁」や、若尾文子でいえば「女は二度生まれる」が好きな私は、女の自立もの、という主題がやんわりと好みで、「ゴーン・ガール」を好きな理由はそこにあるのだな、と思った。
 
 
困った時に助けてくれる、お金持ちで、自分をめいいっぱい偏執的なほどに好きでいてくれるあの男を、どうしてエイミーは選ばないのだろう。アメイジング・エイミー双六の上りとしては、とっても愛してくれる男と出会い、何の不自由もなく豪邸で暮らしましたとさ、というお伽話エンディングでも間違いではないではないか。と思っていたのだけど、それはいかにもエイミーの親(特にママ)が思いつきそうなことで、エイミーなりの抵抗としてのベン・アフレック選択ということなのだよな。不必要なほど頭の切れるエイミーは、自力で幸福を手に入れ、その幸福はエイミーがそれまでの人生で握らせてもらえなかった主導権を握ることでもたらされる。ぼんやりしてるように見えながらも、ここぞという場面では役割を果たせるベン・アフレックは相手に不足はなく、あの2人は気の毒なほど似合いの夫婦、ということなのだろう。
 
 
結末に向けてエイミーが他人のように綺麗になっていく過程、この映画はどのような順番で撮られたのだろう。ロザムンド・パイクは太ったり痩せたりしていたけど、メイクや衣装の力なのだろうか。自我に目覚める過程で見た目もみるみる輝いていく、そんなところも女の自立ものの系譜として完璧な1本。
 
 
私はギンレイで観たけど、目黒シネマでもうすぐかかる時は「紙の月」との2本立てとのこと。去年観た中で最大のモヤモヤ案件だった「紙の月」→「ゴーン・ガール」の順で観ると、モヤモヤがエイミーによって吹き飛ばされてスカッとしそう!

 

 

2015-05-19

春画からはじまる連想

 
 
気圧の上下がダイレクトに体調に影響するようになってしまい、日曜あたりから身体に力が入らない。なんとかあれこれ片付けて、あとは主に妄想・瞑想・連想などをしている。思考って深堀りする体力がなければ横につらつら広がっていくのね。
 
 
9月から東京で春画の展示があると知った。国内初だそう。最近イギリスで大々的に展示されていたの、観たいなぁ・・と思っていたので嬉しい。お膝元なのに観られないジレンマ。
 
 
 
日本映画を観ていると、どうしても春画を連想することが時々あるのだけど、何年か前、春画の背景にびっしり書かれた文字はいったい何が書かれているのか、というのを、ほほぉ、面白い。と興味深く読んでいたら、
 
 
 
 
ちょうどその時、ユーロスペースでの相米慎二監督特集に通っていて、「ラブホテル」を観ていたら、速水典子に絡みつく黒っぽい服を着た寺田農のショットが、まさに「蛸と海女」に見えてきたのが可笑しかった。速水典子の眉の下がった感じのメイクがまた春画顔っぽくて・・。それ以降、春画について目にすると、反射的に「ラブホテル」を思い出す。人の記憶は自由に繋がるなぁ。さらに横に繋がったので、この日記は何日か後に続く。

 

2015-05-18

film festival planning

 
 
友達から予定を聞かれ、〜までは仕事、それを乗り越えたら映画祭、旅行…など答えていてハッとした。もうフランス映画祭の季節ではないか。慌てて調べたらチケットは今週土曜から発売。例年通いながら、今年も中間まで来たな…と思うのだけど、もうそんな時期なのね…。年が明けてからずっと、時間ができたらあれを…など考えながら後送りにしてるけど、そろそろ打ち取り始めなければ。
 
 
一昨年、ゲストも作品も華やかだった記憶があるけど一転、去年は渋めで、今となっては何を観たのか去年のほうが記憶が薄い。一番好きだったのがドキュメンタリー「バベルの学校」だったというのが渋さを物語ってるような。
 
 
今年はオリヴィエ・アサイヤス「シルス・マリア」が私的にハイライトになりそう。ファブリス・ルキーニ主演の映画も楽しみ。

 

2015-05-17

Magic in moonlight

 
 
夢のようなルビッチ活動も終わり、心に穴が開いたよう…。しかしルビッチ活動のために見逃していた映画、何を見逃してたのか忘れるぐらいたくさんあるけど、徐々につかまえなければ…!体調優れずの週末だったけど、映画1本ぐらいなら座ってるだけだから大丈夫だもんね…と、さっと行ってさっと観て帰ることに。文化村le cinema(いつぶりだろう…)で、ウディ・アレン「マジック・イン・ムーンライト」を観た。
 
 
ルビッチ活動から現代映画への回復食…として、ぴったりの選択。1920年〜40年代の映画ばかり観ていたけど、この映画は現代につくられた1920年代の物語。コリン・ファース演じる有名なマジシャンが、友人から相談され、最近出入りして家族同然のような扱いを受けている占い師がインチキか本物か見極めてほしい、と会うことになる、占い師がエマ・ストーン。
 
 
エマ・ストーンの着こなす20年代ファッションの素敵なこと!上の写真はパーティーでとっておきのドレスを着ていて、コリン・ファースも「見違えたよ…」と褒めるセリフがあったのだけど、ゴージャスなこのドレスより、占い師は上流階級の出身ではない、という設定なので、普段は素朴な洋服を着ており、そちらのほうが素敵だった。
 
 
 
 
このシーンはフロント部分に刺繍?プリント?のあるこのドレスもさることながら、ロケーションが最高だった。南仏が舞台。
 
 
 
 
水着、「青髭8人目の妻」のクローデット・コルベールみたい。
 
 
 
20年代といえばローウェスト。最後まで物語を観て振り返ると、何かに取り憑かれた風のエマ・ストーンの表情、おかしい。
 
 
 
花のあしらわれた帽子、リリアン・ギッシュみたいだったな。ややカジュアル寄りの20年代ファッションが印象的だったのは、ルビッチ映画で贅を尽くした本物を見続けていたから新鮮だったのかもしれない。
 
 
映画としてどうかというと、ウディ・アレン映画は、本人が出演しないとすれば、主演男優が、ウディ・アレンが憑依したような演技をすることでお馴染み(私には)だけど、この映画も例外ではなく、コリン・ファースの演技の端々にウディ・アレン調が感じられた。ウディ・アレンはたまに女優にも憑依する…タロットカード殺人事件のスカーレット・ヨハンソンなど…けど、この映画のエマ・ストーンは憑依されることもなく、のびのびとエマ・ストーンの演技として存在していたなぁ。頑固な男が最後に素直になった瞬間を捉えて物語が終わるのも、昔からのウディ・アレン伝統芸で、ルビッチ・リハビリ中の私は、すんなりのんびりと観られる映画をうまく選んで正解だったな、と大満足で映画館を出た。