CINEMA STUDIO28

2015-10-18

Ozu trip / 秋日和アフタートーク

 
 
小津安二郎記念・蓼科高原映画祭。「秋日和」の上映後は、主演の司葉子さん、プロデューサーの山内静夫さん、撮影監督の兼松熈太郎さん(撮影当時は撮影助手)が登壇されてトーク。考えてみれば、小津映画に関わった方の話を聴くのは初めてだったのではなかろうか。
 
【司葉子さんと監督の出会いについて】
 
・(司葉子さん)当時、毎年あったプロデューサー協会のパーティーが主催。五社のプロデューサーや監督が勢ぞろいするので、女優も張り切って着飾って出席していた。司さんは東宝所属の女優。斜め前のテーブル、柱の奥に小津監督が座っていて、司さんのほうにチラチラと視線を送っていた。小津監督だと知らなかったけど周囲の人にその場で教えてもらって、挨拶した。
 
・(山内静夫さん)小津映画の主役を決めるのは重要なことで、慎重に選んでいた。
 
【原節子さんとの共演について】
 
・(司葉子さん)原節子さんは、子供が大きすぎると言ったそうですが…(娘役の司葉子さんが年齢的に大きすぎる…)
 
・(山内静夫さん)女優さんは皆、母親役を初めて演じる時はそのようにおっしゃいます。
 
・(司葉子さん)私は原節子さんの大ファンで、ファンレターを出したこともある。何でもいたします、おそばに置いてください、という内容で。だから小津監督の映画ということ、原節子さんと親子役で共演すること、2つの方向からプレッシャーがあった。今だったらもっと上手にできたのではないか、と思うけれど、原節子さんとご一緒できたのは念願が叶った。みんなから憧れの人でした。
 
【小津監督の本物志向について】
 
・(山内静夫さん)映画の中に登場する絵はすべて本物。当時の有名な画家や文士のことを小津監督はほとんど知っていて親交があり、現場にもよく訪問してきていた。絵はすべて本物だから、撮影が終われば白い手袋をつけて専門の人が倉庫にしまう。撮影が延びて日曜にさしかかり、倉庫が開いておらず、撮影が止まったこともある。
 
・(司葉子さん)小津好み、という言葉があるけれど、小津監督の周囲にいるスタッフも、みんな素敵な方ばかりでした。
 
・(兼松熈太郎さん)撮影がも、カメラの前で物を動かす時、(撮影所が大船にあったので)、海寄り、山寄り、大船寄り…と小津監督が指示して1cm単位で動かしていた。器もすべて本物で、配置も計算ずくだった。

・(司葉子さん)位置を決めるのに午前中いっぱいかかり、緊張のあまり初日は気絶した。箸の持ち方、上げ方も指示され、立ち方も直立不動ではなく背中を少し曲げるように指示された。

・(山内静夫さん)俳優の演技より、全体の構図が綺麗であることが大事。その積み重ねが映画になる。物もいい物、悪い物は映りが違う、それなりの物はそれなりに映る。いい物を映せば全体が引き締まり、俳優の緊張感も高まる、という考えだった。画家ともつきあいが多く、よく飲みに行っていたようで、親交を深めて、映画に絵を借りようという魂胆があったのかもしれない。

・(司葉子さん)着物にも誰よりも詳しく、女優の着物もすべて選んでいた。でも、洋服にはあまりうるさくなかった。

・(山内静夫さん)洋服は好きではなかったのかもしれないですね。食べ物も一流で全部本物だった。映画の中にトンカツが登場するなら、上野の蓬莱軒から職人を呼んでセットで本物を食べていた。あのこだわりは真似のできないこと。

【海外での人気について】

・(司葉子さん)政治の仕事で(司さんの旦那さんは政治家なので)フランスに行き、各国の奥様方と交流した際、小津監督の名前を出すと、皆さんひっくり返って盛り上がりました。

・(山内静夫さん)日本よりフランス、イギリスで人気が高い。ヨーロッパでは黒澤より小津のほうが人気がある。
 
・(兼松熈太郎さん)撮影の会合でヨーロッパに行った時は、小津組と紹介されると、スタンディングオベーションしてもらった。

・(山内静夫さん)関わった人はみんな、小津監督の恩恵をずっと受けている。料理でも何でも同じだけど、本物の味はみんな忘れられない、ということでしょう。


最後に、司葉子さんが、原節子さんの現在についてお話をされた。今も交流があり、時々電話で話すと何時間も話し続け、芸能界で現在も交流のある唯一の人、とのこと。「とってもお元気よ!」と、おっしゃっていたけれど、原節子さんが現在もお元気、ということが今ひとつ現実感としてピンとこなくて、聴きながらきょとん、とした。